ウィリアム・マッキンリー 第25代アメリカ合衆国大統領

ウィリアム・マッキンリー

William McKinley

生没年(1843年1月29日〜1901年9月14日)
在任期間(1897年3月4日〜1901年9月14日)
 
ウィリアム・マッキンリー大統領の概要
大学を中退
 ウィリアム・マッキンリーはオハイオ州ナイルズで生まれた。父ウィリアム(1807.11.15-1892.11.24)と母ナンシー(1809.4.22-1897.12.12)の9人の子供の7番目の子供であった。父ウィリアムは銑鉄製造業を営んでいた。マッキンリーはアレゲーニー・カレッジに進学したが病気のためにドロップアウトした。療養後、大学に復帰しようとしたが家庭の経済状況により教師を務め、郵便局で働いた。南北戦争で出征し、後に19代大統領となるヘイズと同じ部隊で戦った。戦後、法律を学んで法曹界に入った。

オハイオのアイドル
 マッキンリーはスターク郡の検事に立候補して見事当選を果たした。しかし、再選を阻まれてからは弁護士業に勤しんだ。その後、共和党から連邦下院議員に選出され計12年間にわたって在職した。下院議員としてマッキンリーは高関税政策を主張し、マッキンリー関税法案を提出した。さらにオハイオ州知事選に出馬し、民主党候補を抑えて当選した。知事を2期務めた後、1896年の大統領選挙で勝利をおさめた。

米西戦争
 マッキンリーは史上最高のディングリー関税法案を成立させた。また金本位制を確立させた。米西戦争でスペインを破り、多くの海外領土を獲得した。マッキンリーは最初の近代的大統領であり、今日の行政府の基礎の多くがマッキンリー政権下で築かれた。1900年の大統領選挙で再選されたが、就任後、銃撃され亡くなった。


ウィリアム・マッキンリー政権の概要

大統領選挙

 クリーヴランドの保守主義は、特に2期目において、民主党の人気を失わせた。近代産業化した都市が国中で急速に拡大していく中、1896年の大統領選挙で民主党が労働者と都市住民の票を多く失ったことは共和党に優位な政治的再編を促進した。1896年の大統領選では、1893年恐慌が民主党にとって大きな負い目となったこととブライアンの急進性を危惧した産業界の反発により、共和党候補のマッキンリーが勝利して大統領に就任した。オハイオ州知事のマッキンリーが北西部と中西部の産業が発展した州を抑え、旧南部連合諸州と極西部を抑えたブライアンを破った。ブライアンの支持基盤は主に南部と西部の農民であった。一般投票は伯仲していたが、マッキンリーはブライアンの176人に対して271人の選挙人を獲得した。
 ちなみにこの時、ブライアンは36歳で、もし当選していたら最年少大統領になっていたはずである。金の十字架演説で有名になった。金の十字架演説は、1896年7月8日にシカゴで開かれた民主党全国大会で行われた演説で単一金本位制を批判して「諸君は労働者に茨の冠を被せ、人々を金の十字架にかけてはならない」と述べた。ブライアンは銀貨の自由鋳造を唱え、所得税を違憲とした最高裁の判決を批判し、課税の公正を求め、労働争議に対する強制差し止め命令を個人の権利を抑圧する政府の干渉だと非難し、連邦軍によるストライキの鎮圧を州権の侵害であると論難した。
 また1896年の大統領選で目を引いたのは第三党としての人民党の隆盛である。人民党は1891年に結成された西部と南部の農民や都市の労働者を支持母体にした政党で、公益のために個人の自由と権利は制限されるべきであると主張していた。人民党は現制度に対する痛烈な告発であり、銀貨の自由鋳造、鉄道、電報、電話の国有化、所得税の累進課税、運送会社の独占を打破する小荷物郵送、移民の制限、8時間労働、連邦上院の普通選挙、オーストラリア式秘密投票、国民の発議権と決議権など急進的な綱領を採択した。ブライアンはこの人民党の勢力を背景に民主党の大統領候補になることができたのである。1896年の大統領選は、急進性を恐れる実業勢力と革新的な大衆勢力との争いだったと見ることができる。
 1896年の大統領選挙は選挙運動に重要な変化をもたらした。多くの有力な民主党員から見放されたが、演説技量に自信を持つブライアンは有権者に直接支持を訴えるために国中で遊説旅行を行った最初の大統領候補となった。高い演説技量に恵まれたブライアンは1万3,000マイルを踏破し、27州を巡り、800回以上の演説を行った。1日に6度の食事を摂り、睡眠は短時間で済ませ、強壮薬としてアルコールを飲み、ブライアンは遊説旅行を続けた。列車の上から演説するブライアンのもとに人々は集まった。鉄道の沿線の小さな町をあまねく巡って遊説旅行は行われた。
 もしブライアンが勝利したとしても有益な政策をとることはできなかっただろう。巨大な産業界を規制する政策を行う準備はまだできていなかったし、銀貨の自由鋳造が行われていれば不況は長引いたかもしれない。ブライアンの登場は産業主義に反対する従来の農業を主体とする経済体制の最後の抗議であるとともに革新を求める新しい体制の萌芽であった。ブライアンはジャクソンとセオドア・ローズヴェルトの中間的な存在であった。
 マッキンリーも州知事時代の1894年9月から11月にかけて大規模な遊説旅行を行ったことで知られている。特別列車を使い、1万6,000マイルを移動し、約200万人に対して毎日平均で7回の演説を行った。しかし、1896年の大統領選挙でマッキンリーは、遊説旅行に出掛けることはなく共和党の党組織を活用して「玄関先の選挙運動」を展開した。マッキンリーは、オハイオ州カントンの自宅で有権者の代表達に挨拶した。6月半ばから11月にかけて、30州からの合計約75万人の訪問者にマッキンリーは演説した。マッキンリーの演説は長くて平凡なものであったが、催事は慎重に計画された。代表達が到着する直前に、カントンに電報が届き、代表達に関する情報が伝えられた。訪問者が到着するまでにマッキンリーは名前を呼んで代表達に挨拶し、姿が見えない家族に言及し、代表者の故郷に関する話をすることができた。
 ブライアンの小さな町を鉄道で巡る遊説旅行と同じく、マッキンリーの玄関先の選挙運動は、政党が中心となった選挙運動から候補者が中心となった選挙運動への移り変わりを示すものであった。マッキンリーの家を訪問した者の中には、有名な玄関の一部を土産として持ち帰る者もいた。またマッキンリーに贈り物をする者も多かった。インク壺から浴槽に至るまで様々な贈り物がもたらされた。そうした人々の行動は、政党ではなく候補者が選挙運動の中心に置かれるようになったことを示している。
 1896年の大統領選挙における共和党の劇的な勝利は、手腕に富んだ政治家であるマッキンリーに大統領の座をもたらした。マッキンリー政権は、活力に富んだセオドア・ローズヴェルト政権の前触れとして言及されることが多い。クリーヴランドが2期目で発揮した強力なリーダーシップを続行することでマッキンリーは1期目で大統領制度に重要な変革をもたらした。

議会を主導するリーダーシップ

 マッキンリー政権はある側面では非常に伝統的であった。ベンジャミン・ハリソンのようにマッキンリーは長い議員経験を経て大統領になった職業的な政党人であった。したがってマッキンリーは良い政治は党組織を通じて達成されると信じていた。そして、議会の優越性を尊重していた。しかし、ハリソンと違って、マッキンリーは大統領の権威を低下させるようなことはなかった。マッキンリーは、南北戦争後の大統領の中で、議会指導者の怒りをかうことなく政治的主導権を握った最初の大統領になった。
 立法過程に関するマッキンリーのリーダーシップは活発なものであったが、それは大統領の権限を拡大するような形で発揮されたわけではない。マッキンリーが議会に影響力を及ぼす手法は、民主共和党の計画を法制化するために党幹部会を利用したジェファソンの手法と似ていた。ジェファソンの後継者達はジェファソンのような議会に対する影響力を持つことができず、大統領のリーダーシップを維持する手段としての政党政治の限界を示した。

報道関係

 マッキンリーはホワイト・ハウスに記者達のための場所を設けた。大統領の側近が正午と4時の1日2回現れて様々な事情を簡潔に伝えた。実質的にこれはホワイト・ハウス報道室と言えた。マッキンリーは大統領の威信を保つために記者達と一定の距離を置こうとした。記者達はホワイト・ハウスの一角に専用の場所が与えられたものの、事前の約束がなければ大統領に面会することはできなかった。しかし、マッキンリーはできるだけ記者達と友好な関係を築こうとした。クリーヴランドとは違って、マッキンリーは、記者達によって設立されたグリディロン・クラブの夕食会に参加した。グリディロン・クラブは今日でも記者と政治家が交流する重要な場となっている。
 1897年の遊説旅行でマッキンリーは記者達を随行させただけではなく、親しく彼らの間に混じって会話を楽しんだ。マッキンリーがワシントンを離れて遊説旅行に出掛けた回数は約40回に及ぶ。例えば1899年10月に中西部で行った2週間の遊説旅行で約80回もの演説をマッキンリーは行った。6人の速記者を大統領に随行させることで、演説が終わった直後に記者達が演説の正確な原稿を入手できるようにした。マッキンリーは、それ程、効果的とは言えなかったものの、報道と遊説旅行を使って議会に圧力をかけようとした。それはヘイズやハリソンが慎重に避けていた手段であった。マッキンリーが公衆の面前で暗殺前に最後に行った演説は、上院が無視していた条約を擁護する内容を含んでいた。

ハワイ併合

 マッキンリー政権は立法ではなく戦争と外交政策にかかりきりになった。大統領は最高司令官と外交政策の担い手としての役割を十二分に果たした。クリーヴランド政権はハワイ共和国を承認しなかったが、マッキンリーはすぐにハワイ共和国を承認した。マッキンリーはタイラーがテキサス併合で行ったように議会にハワイ併合を認める両院合同決議を出すように求めた。議会は決議を可決し、1898年7月8日、マッキンリーの署名によって成立した。1ヶ月後、ハワイ共和国の主権はアメリカに移った。

米西戦争の勃発

 スペインからの独立を求めるキューバに対する同情、西半球で植民地を維持しようとするヨーロッパ列強への反感、そして、キューバ人に対するスペインの強制収容所での残虐行為に関する報道によって、アメリカ人の戦いを求める声は高まった。さらにアメリカは、キューバにプランテーション、鉄道、鉱山などを中心とする総額5,000万ドル以上の経済的権益を持っていた。マッキンリーはキューバ問題を軍事介入なしで解決することを望んでいた。外交的手段を通じてマッキンリーは、スペイン政府にキューバ人を人道的に扱い、反乱者と交渉によって解決をもたらすように促した。スペイン政府は強制収容所を廃止し、現地の司令官を更迭し、キューバに自治権を与えることを約束した。危機は回避されたかのように思えた。
 米西戦争は、1898年2月15日21時40分にキューバのハヴァナ港に停泊していたアメリカ海軍のメイン号が何らかの原因よって爆発し、266人が死傷したことが直接的な引き金となった。メイン号は、キューバ人に対するいかなる妥協にも応じるつもりがないスペイン人がハヴァナで暴動を起したために、アメリカ人を保護し、キューバへの支持を示そうと派遣されていた。アメリカは、メイン号の爆発が外部的な要因によるものだと断定した。国民の怒りは「メイン号を忘れるな」という合言葉の下に一気に燃え上がった。事件の翌日、マッキンリーはスペイン政府に、即時休戦、捕虜の釈放、アメリカ政府による仲裁を求める覚書を送付した。スペイン政府はアメリカとの戦争を極力避けようとして問題の解決を図ろうとした。もしマッキンリーが平和的解決を断固たる決意で推進すればスペインとの戦争は避けられたかもしれない。しかし、マッキンリーは報道の好戦的なプロパガンダに扇動された世論と共和党内のタカ派の主張に最終的に屈し、外交的手段による平和的解決を諦め、1898年4月11日、議会に戦争教書を送付した。

「長い試練の末に、スペインが戦争をする目的は達成できないということが明らかになった。暴動の火の手は、季節の移る変わりとともに燃え上がりくすぶり続けるであろう。しかし、現在のやり方で鎮火することはできないということは今までは明白ではなかったが、今や明白である。もはや耐えられない状況から救われ、平穏になるための唯一の希望は、キューバに紛争解決を強いることである。人道の名の下に、文明の名の下に、対話し行動する権利と義務を与える、アメリカの危機にさらされた利益のために、キューバでの戦争を止めなければならない。こうした事実と考察から、私は、スペイン政府とキューバ人民の間の戦争行為を完全に終わらせるために、秩序を維持でき、国際的責務を遵守でき、平和と平穏、人民の安全を我が国の国民と同様に保障することができる安定した政府をキューバ島に樹立させるために必要となる措置を取る権限と合衆国陸海軍を目的に応じて使用する権限を大統領に認めて与えるように議会に求める。そして、人道のために、キューバ島の飢えている人民の命を救う支援を行うために、食糧と生活必需品の配布を継続させ、市民の義捐金を補足するために国庫から予算を割くことを提言する。問題は今や議会とともにある。それは厳粛なる責任である。我々の軒先で起こっている容認し難い事態を解決するためにありとあらゆる努力を惜しまなかった。憲法と法によって私に課せられたあらゆる義務を遂行する覚悟はできている。私はあなた方の行動を待つばかりである」

 議会はマッキンリーの戦争教書に対して4月20日、大統領に軍事力を行使する権限を認め、4月25日、正式にスペインに対して宣戦布告した。しかし、議会は露骨な帝国主義を心配する人々を安心させるために、テラー修正と呼ばれる合同決議で、平和のための場合を除いてキューバの主権を放棄し、平和が達成された後は、キューバの支配をキューバ人民に委ねることを約束した。米西戦争に反対する者はごく少数で挙国一致の戦争と言えた。アメリカ人によって米西戦争は、表向きは旧世界のすべての専制、不信行為、腐敗から自由と民主主義を守るための戦いであった。米西戦争の勝利は、アメリカを帝国主義勢力として台頭させることになった。しかし、その目的は本来、キューバとハワイを確保し、モンロー・ドクトリンを誇示してアメリカの優越性を主張し、イギリスに西半球、特にカリブ海地域に影響力を拡大させないために必要な戦争であった。
 マッキンリーは戦争遂行を毎日、時には毎時間、監督した。それは大統領が戦争遂行に積極的に関与するより強固な基礎を築いた。また米西戦争はマス・メディアを中心とした大統領制度の形成に貢献した。メイン号が爆発した事件の直後、記者達は答えを求めてホワイト・ハウスに殺到した。新しいニュースを待ってホワイト・ハウスの前で記者達は待機した。1日に2回の状況の説明では記者達の要望に応えることができないのは明らかであった。戦争中、マッキンリーはホワイト・ハウスの報道機能を拡大し、毎日、公式声明を発表し、ホワイト・ハウスを通じてどのような小さな情報でも得られるようにした。マッキンリー政権の終わりまでにホワイト・ハウスは政治的なニュースの中心となった。アメリカ国民からホワイト・ハウスに寄せられる手紙は年間10万通に及び、整理に30人の職員を必要とした。

米西戦争の展開

 戦闘行為は短く、勝利は決定的であった。アメリカ海軍は近代的であり、兵員の士気は高かった。それに比べてスペイン海軍は老朽化しているうえに兵員の士気は奮わなかった。1898年5月1日、ジョージ・デューイ(George Dewey)率いるアジア艦隊は宣戦布告の知らせを受けると香港から出港し、マニラ湾でスペインの太平洋艦隊に完勝した。アメリカ海軍の戦死者はなく8人が負傷したのみであり、艦船の損害も軽微であった。それに対してスペイン艦隊は400人以上が死亡し、7隻の艦船すべてが破壊された。デューイは海戦で勝利を収めたが十分な兵力がなかったために、フィリピンの占領は本土からの陸軍派遣を待たなければならなかった。マッキンリーはフィリピンに陸軍を派遣したが、マニラのみを占領するのか、それともフィリピン群島全体を制圧するのか明確な指示を与えなかった。6月、フィリピン派遣軍の分遣隊によってグアムが占領された。アメリカ海軍はフィリピンの革命派の指導者エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)率いる部隊がマニラを攻撃する支援を行った。マッキンリーはフィリピン独立運動にどのように対処するのか決定していなかった。そのためアメリカ軍はアギナルドに戦略的な主導権を奪われた。6月、アギナルドはフィリピン独立を宣言した。遅れて到着したフィリピン派遣軍はスペインと取引を行った。アギナルドをマニラの要塞の外に追放することと引き換えにスペインはマニラをアメリカに引き渡した。その一方で、アメリカの北大西洋艦隊はキューバ海域を封鎖した。ウィリアム・シャフター(William Shafter)率いるアメリカ軍は護衛戦艦に守られてサンティアゴ付近に上陸した。シャフター率いる部隊はエル・カネイとサン・フアン・ヒルの攻略に成功し、7月にサンティアゴを占領した。ウィリアム・サンプソン(William Sampson)率いるアメリカ艦隊はキューバとジャマイカの間の海域でスペインの大西洋艦隊を打ち破った。7月終わり、アメリカはプエルト・リコを占領した。
 米西戦争で最も重要な点は、カリブ海と太平洋における領土の拡大が相当なものであったので、南北戦争後に起きたような大統領の権限に対する戦後の反動がなかったことである。米西戦争の勝利に伴うフィリピンの獲得とキューバへの影響圏の拡大は、合衆国に広範な国際的な責務を負わせた。合衆国が国際問題において新しい顕著な地位を得るようになったというアメリカ人の思いを助長させた。したがって米西戦争は大統領制度の憲法上の発展における画期的な事件であった。マッキンリーは秘書に向かって「私はもはや政党の大統領とは呼ばれない。私は今や全人民の大統領である」と言っている。
 さらにマッキンリーはアメリカの使命感を強く主張した。マッキンリーは第2次就任演説の中で、アメリカの歴史がまさに「自由と博愛」を高める歴史であったと概括し、「神への畏敬の念の下に、好機を利用し自由の領域をこれから拡大する」と明言している。マッキンリーは自身が神の意志に従って行動しているという印象を国民に与えようとした。アングロ・サクソンの優位性と自由、 そしてナショナリズムが結び付き、アメリカは「最大の自由と最も純粋なキリスト教信仰と最高の文明」を人類に流布する使命を帯びた国であるという自意識を持つようになったのである。

講和交渉

 スペインは講和を求めた。停戦は8月12日に宣告された。米西戦争で戦死したアメリカ人は400人以下であったが、数千人がマラリアや黄熱病で死亡した。1898年12月10日、パリ講和条約が締結された。スペインはキューバに対する領有権を放棄し、プエルト・リコ、グアムをアメリカに割譲し、2,000万ドルと引き換えにフィリピンを割譲した。
 アメリカはフィリピンを獲得することで極東進出への橋頭堡を確保するか、それともフィリピンを放棄して極東から一切撤退するか選択を迫られた。さらにドイツがフィリピン獲得を狙っていることは明らかであった。結局、アメリカはフィリピンの獲得することを選択し、植民地を持つ海洋帝国として世界の強国となった。フィリピンの獲得は同時にアメリカを極東の一大強国とし、アジアの勢力均衡に巻き込み、最終的に日本との対決に繋がった。そうした意味でフィリピンの獲得とはアメリカの歴史における重要な転換点であった。
 ただしフィリピンやプエルト・リコ、グアムは公式には植民地として扱われず保護領であり、植民地省のような植民地を監督するような組織は設立されず、陸軍省内の島部領土問題局の管轄下に置かれ、離島領土は海軍省の管轄に置かれた。また保護領は連邦議会が定めた組織法を憲法として採択した。そして、合衆国憲法は組織法で示されている部分と連邦裁判所が適用可能と判断した部分のみが適用された。保護領の住民は連邦政府によって特別に認められない限り、アメリカの市民権を持たなかった。

米比戦争

 講和条約で米西戦争は終結したが、それはフィリピンでのさらなる戦いを意味していた。アメリカはマニラの共同占領を求めたアギナルド率いるフィリピンの革命派を裏切る形になった。スペインとアメリカの休戦の知らせが届いた頃、アメリカ軍と革命派の間で既に戦闘が始まった後であった。フィリピン人はアメリカが導入する民主主義と自由によってもたらされる変革を歓迎するものだと予想していたために、フィリピン人の抵抗はアメリカにとって驚き以外の何物でもなかった。初代大統領に選出されたアギナルドは、フィリピンを占拠しようとするアメリカ軍の試みに抵抗すると声明した。
 フィリピンでの戦闘は米西戦争よりも多くの戦死者を出したが、マッキンリーは議会に戦争権限を求めようとしなかった。なぜならフィリピンは既にスペインから割譲されたアメリカの領土の一部であるから、フィリピンでの戦闘は反乱だとマッキンリーは考えたためである。マッキンリーはフィリピン人が自治政府には不向きであると考えていた。マッキンリーの考えでは、アメリカがすべての責任を負い、フィリピン人を教育し、キリスト教化しなければならなかった。しかし、実際にフィリピン人に行われたのは拷問、虐殺、略奪であった。フィリピンにおける2年半に及んだ紛争で、アメリカは12万人の兵士を動員し、4,300人の犠牲者を出した。一方で、フィリピン人は1万6,000人の兵士と25万人以上の民間人が犠牲になったと言われている。
 19世紀の大統領制度の伝統に基づいてマッキンリーは、アメリカの対フィリピン政策を決定するのはアメリカ人民の声を代弁している議会であると主張した。しかしながら議会は組織法を定めた他はアメリカの最初の植民地であるフィリピンの地位を具体的に決定する法案を制定しようとはしなかった。その代わりに議会は、大統領にフィリピンを軍政下に置く権限を認めた。実際、議会がフィリピンをほとんど監督することがなかったので、フィリピンは大統領の監督下に置かれた。戦時の大統領としてマッキンリーは非常時であること強調し、これまで以上に大統領の権限を拡大した。

キューバ統治

 一方、キューバでは事態は平和的に進んだ。ヨーロッパ列強はアメリカがキューバを併合すると予想していたが、アメリカはキューバを自由にするという約束を果たした。少数のアメリカ占領軍がキューバを3年にわたって統治したが、フィリピンと対照的にアメリカに反抗するような動きは見られなかった。1900年、キューバで憲法制定会議が開催され、アメリカの要望にしたがってグアンタナモ海軍基地がアメリカに譲渡され、キューバの独立と秩序を維持するためにアメリカの介入を認めるプラット修正条項が認められた。その後、アメリカ軍は撤退し、キューバは主権を獲得した。プラット修正条項は1934年に破棄されるまで存続した。

門戸開放政策

 アメリカが国際的な責務を担うようになったことで政党間の相違が緩和された。ワシントン以来、初めて大統領は党派政治の枠組みを超えた地位を享受することができた。太平洋に領土を持つことは極東における合衆国の利害を増加させた。ハワイとフィリピンの獲得によって、中国との貿易を行う中継点が確保された。当時、日本、イギリス、フランス、ロシア、そしてドイツは弱体化する中国から特殊権益を獲得していた。アメリカ国内で中国市場におけるアメリカの特殊権益を確保するように求める声が高まった。
 1898年9月、マッキンリーはジョン・ヘイ国務長官を通じて中国に対する門戸開放政策を唱えた。アメリカは中国が列強の侵略によって崩壊し、列強がアメリカに対して貿易障壁を築くのではないかと恐れていた。ヘイはイギリス、ロシア、ドイツ、フランス、ベルギー、イタリア、日本に、各国が中国における利益範囲、租借地域の条約港、既得権益に干渉しないこと、中国の関税率を利益範囲の港で陸揚げ、船積みされる商品に対してその国籍に関係なく適用すること、そして、利益範囲内の他国籍の船舶、鉄道運賃、商品に対して自国籍よりも高い運賃、税を課さないことを要請した。つまり、差別関税やその他の規制なしですべての交易国に中国で平等な足掛かりを与えるというのが要点である。中国との貿易を独占し続けたいと考えていた列強はアメリカの門戸開放政策を歓迎しなかった。
 中国に進出する機会は1900年に義和団事変が起きた時に訪れた。義和団は北京のイギリス大使館に篭城した各国公使を包囲した。義和団は8ヶ国連合軍によって鎮圧された。マッキンリーは門戸開放政策を認めさせる見返りにアメリカ軍を派遣した。北京議定書の下、中国政府は3億3,300万ドルの補償金の支払いを認めた。アメリカはそのうち2,500万ドルを獲得し、その多くは中国人学生の奨学金に使われた。
 ヘイは1900年7月に2度目の通告を各国に送付し、中国の領土的、行政的独立の維持を求めた。アメリカは欧州列強や日本による中国分割を牽制しつつ、自国の将来の権益を確保しようと図ったのである。こうした門戸開放政策は20世紀半ばまでアメリカの対中政策の基本原則となった。

暗殺

 マッキンリー政権は突然終わりを迎えた。1901年9月6日、マッキンリーはバッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会を訪問中に無政府主義者の銃撃を受けた。公式の歓迎会で大統領に挨拶する列に並んでいたレオン・チョルゴシュ(Leon Czolgosz)は手を差し伸べようとした大統領の腹部に向けて2回発砲した。チョルゴシュの銃はハンカチに包まれた手の下に隠されていた。警護の者は特に何の不審も抱かなかった。1発の銃弾は胃を貫通していた。ガーフィールドは近くの病院に運び込まれたが、医師は残る銃弾を発見できず、腹腔内を洗浄して縫合するだけにとどめた。大統領は8日間生存したが、9月14日に壊疽によって亡くなった。検死によっても銃弾は発見されなかった。ガーフィールドが亡くなった時、副大統領のセオドア・ローズヴェルトはアディロンダック山脈に出掛けていたためにすぐに大統領職を引き継ぐことができず、13時間、大統領職が空席になった。

結語

 マッキンリー政権は大統領制度の重要な転換期にあたる。確かにマッキンリー政権は、活発な大統領のリーダーシップの前兆に過ぎないのかもしれない。連邦政府は経済に関して限定的な役割しか果たさないという信念に基づいてマッキンリーはトラスト、労働者、公職、人種関係などその当時の重要な問題を解決するために積極的な施策をとろうとはしなかった。また既存の党組織を通じて以外は世論に積極的に訴えようともしなかった。マッキンリーは教書や演説で外国貿易やフィリピン問題に言及することはあったが、特定の法案や条約に言及することはまれであった。
 南北戦争後、アメリカ社会は大きく変化した。連邦政府が州政府や地方当局に対する優位性を確立し、近代国家の基礎が固められた。政党は全国的な組織に成長した。戦時における大統領の権限拡大に対する反動として議会の影響力が増大した。全国的に産業が発達し、独占的な企業が出現した。フロンティアが消滅し、都市化が進捗した。工業の発達により工場労働者の数が増えた。労働力の需要が高まり、移民が増加した。産業の発達とフロンティアの消滅により海外市場の獲得に目が向けられるようになった。
 社会の変化に伴って様々な弊害が生じた。独占企業は自らの事業を有利に進めるために政治家を買収した。ジャクソン政権に始まる猟官制度がますます激しくなり、政治的ボスが暗躍するボス政治が猖獗を極めた。都市化によって公衆衛生、住宅、貧困、教育などの問題が生じた。労働者の数の増大によって過重労働、低賃金、年少者労働など様々な労働問題が生じた。農作物価格の下落によって農民が打撃を受けた。こうした弊害は、自由放任主義に基づく小さな政府が社会の変化に対応しきれなくなった結果、生じた。弊害を是正しようとしない政府への不満が次第に高まり、それは革新主義として結実するようになった。
 革新主義は政治の世界にも影響を及ぼした。運動は結合力がなく組織化されていなかったが、革新主義者は州政府に影響を及ぼし始め、政治的ボスの権力を剥ぎ取り、主権を人民に返すことを大きな目的とした。広範な政治改革には秘密投票、直接選挙による予備選挙、議会の施策に対する住民投票、有権者の請願による立法、上院議員の直接選挙などが含まれた。直接投票による予備選挙は、政治的ボスではなく人民の投票によって候補者を選ぶ仕組みである。1916年までに3つの州を除くすべての州が直接選挙による予備選挙を採用した。しかし、有権者による解職請求は広く受け入れられなかった。そうした政治改革は公職者が有権者に対してより直接的に責任を負うようにさせた。革新主義を提唱した代表的な大統領は、セオドア・ローズヴェルト、タフト、そしてウィルソンの3人である。
歴代アメリカ合衆国大統領研究