国務長官エドモンド・ランドルフ


 ワシントンはジェファソンの代わりにマディソンを国務長官に指名しようとしたが、マディソンがそれを辞退したために実現しなかった。そのためエドモンド・ランドルフが司法長官から新たに国務長官に異動した。ランドルフの経歴については、司法長官エドモンド・ランドルフを参照せよ。
 フランス革命戦争が勃発すると、ランドルフは中立を守ることを強く主張し、ワシントンの中立宣言を支援した。対英関係の悪化に対してランドルフは、懸案事項を話し合う特使をロンドンに派遣するという連邦派の案に好意的であったが、外交問題へのハミルトンの介入を嫌ってジェイの派遣に反対した。またランドルフは最高裁判事が外交官を兼ねるべきではなく、ジェイは判事を辞任するべきだと考えていた。
ランドルフの反対にも拘らず、ジェイは結局、指名を帯びてイギリスに旅立った。一方、ハミルトンは、ランドルフがイギリスと開戦するようにワシントンを唆すのではないかと疑っていた。そのためハミルトンはジェイ条約締結交渉の際、秘密裡にジェイに指示を与えていた。
 ジェイ条約の内容を知らされた時、ランドルフは個別の条項を除けば条約締結に概ね好意的であったが、ワシントンにジェイ条約を締結しないように助言した。ジェイ条約締結を推進していた連邦派はランドルフの助言を快く思わなかった。連邦派と同じくジェイ条約締結を推進していた駐米イギリス公使ジョージ・ハモンドは、押収した駐米フランス公使ジョゼフ・フォーシェイの公文書をピカリングとウォルコットに手渡した。ピカリングとウォルコットはそれをワシントンに手渡した。
 1795年8月19日、ワシントンは、1794年10月31日付のフォーシェイの公文書の内容に関してランドルフに釈明を求めた。ランドルフがフランスから賄賂を受け取ったと読み取れる内容がその公文書に記されていた。詰問されたランドルフは、ワシントンの信任を失ったと感じてすぐに辞任した。1795年にランドルフは「ランドルフ氏の辞任の弁明」というパンフレットを発行し、イギリスの陰謀で辞任に追い込まれたと釈明した。それだけにとどまらず、ワシントンを激しく非難したので、両者の仲は完全に決裂した。この事件に関する真相は未だにはっきりしていない。フランスがジェイ条約締結を阻もうとして、ウィスキー暴動にイギリスが関与したことを示す何らかの証拠をランドルフから引き出そうとしたに過ぎないとも言われている
 辞任後、ランドルフはリッチモンドで弁護士業を再開した。1807年にはアーロン・バーの弁護人も務めた。 

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