ジョージ・ブッシュ 第41代アメリカ合衆国大統領

ジョージ・H・W・ブッシュ

George Herbert Walker Bush

生没年(1924年6月12日〜)
在任期間(1989年1月20日〜1993年1月20日)
 
ジョージ・H・W・ブッシュ大統領の概要
東部エスタブリッシュメントの生まれ 
 ジョージ・ブッシュはマサチューセッツ州ミルトンで生まれた。父プレスコット(1895.5.15-1972.10.8)と母ドロシー(1901.7.1-1992.11.19)の5人の子供の2番目であった。父プレスコットは実業家であり連邦上院議員も務めた。母ドロシーはテニスの全米大会の決勝まで進んだ経験を持っている。第2次世界大戦では海軍に志願し、太平洋戦線に配属された。戦後、イェール大学に進んだ。

要職を歴任
 戦後、石油業界でブッシュは財産を築き、連邦上院議員に立候補するが落選した。しかし、連邦下院議員に当選を果たした。ニクソン政権下で国連大使に任命され、その後、アメリカ中国事務所長、CIA長官を歴任した。1980年の大統領選挙でブッシュはレーガンと指名を争ったが敗北し、代わって副大統領候補指名を受けた。レーガン政権下で8年間副大統領として在任し、1988年の大統領選挙で大統領に選ばれた。

冷戦の終結
 レーガンの外交路線を継承したブッシュは東西緊張緩和の道筋をたどり、マルタ会談でゴルバチョフと会談し、冷戦を終結させた。湾岸戦争をはじめ、パナマ、サウジアラビア、ソマリアなどに軍を派遣し、地域紛争への積極的な介入を行った。内政面では景気後退に見舞われ、レーガン政権以降の「双子の赤字」を解消することができなかった。


ジョージ・H・W・ブッシュ政権の概要
大統領選挙

 1968年に始まった分断された政府の時代は1989年のレーガンの退任でも終わらなかった。1988年11月8日、有権者は共和党のジョージ・H・W・ブッシュを大統領に選んだ一方で、民主党が上下両院で多数派を占めるのを許した。直近の6回の大統領選挙の中で、上下両院の多数派と大統領職が同じ党に占められたのは僅かに1回のみである。ブッシュ副大統領が民主党のマイケル・デュカキス(Michael S. Dukakis)大統領候補にたやすく勝利できたのはある意味でレーガンの勝利であった。ブッシュは、レーガンの大統領としての業績を認める有権者の80パーセントの支持を得た。1836年の大統領選挙でヴァン・ビューレン副大統領が大統領に選出される手助けをしたジャクソンのように、レーガンの人気と積極的な支持はブッシュに有利に働いた。
 しかし、ブッシュの勝利は不完全であった。地滑り的な勝利を大統領選挙で収めていながら、その一方で野党が連邦議員選挙、州知事選挙、そして州議会選挙で優勢を占めるという情勢に立たされた大統領は今までにいなかった。特に連邦議会選挙では1884年以来、これまで新たに選ばれた大統領の中で最低の議席数を記録した。本来、アメリカの憲法上の抑制と均衡の制度はそのような党派の分断によって特徴付けられるものではない。レーガン革命の不完全さとレーガンが後任者に残した主要な政策課題によって、ブッシュは深刻な統治上の危機を迎えることが予測された。
 分断された政府はブッシュが大統領になった時にはまったく新しい事態ではなかった。ブッシュの4人の前任者の中で与党が上下両院を支配するという状態を享受したカーターのみである。しかし、政党間の分裂が激しくなると立法府と行政府の相違はますます深まった。ニクソンとフォードが大統領だった時、大多数の民主党議員はリベラル派であったが、南部の保守派の民主党議員はしばしば共和党の大統領を支持した。同様に、この時代の大部分の共和党議員は保守派であったが、共和党議員の一部は北東部のリベラル派であり、民主党議員と一致して投票を行った。ブッシュが大統領になるまで、南部の有権者は、保守派の民主党議員を共和党議員に置き換え、北東部の有権者リベラル派の共和党議員を民主党議員に置き換えた。ブッシュが大統領に当選して以来、分断された政府は、議会が単なる野党に支配されるだけではなく、イデオロギー的に団結した野党によって支配されることを意味していた。

ラテン・アメリカ政策

 ブッシュ政権の業績について簡単にまとめると、外交政策で勝利を収め、国内政策で失敗したと言える。ブッシュは特に外交分野で指導者として予期できない強さを示した。レーガンと比べて、ブッシュはほとんどすべての注意を外交の長と最高司令官という憲法上の役割に向けた。国際問題は1988年の大統領選挙で主要な主題とはならなかったが、それはある意味でブッシュ自身の経歴の主題であった。大統領になる前、ブッシュは国連大使、在中国アメリカ連絡事務所所長、中央情報局長官を務め、歴史上、最も外交経験の豊富な副大統領であった。こうした経歴によって、ブッシュは世界の指導者の間に幅広い人脈を持っていた。大統領としてブッシュは時にそうした世界の指導者と電話で数時間も会話した。
 ブッシュの外交政策における業績はほぼ全世界にわたっている。ブッシュは、レーガン政権からラテン・アメリカに関する2つの困難な問題を引き継いだ。1つはニカラグア問題であり、もう1つはパナマ問題である。1989年、徹底的な交渉の後、ブッシュは、レーガンと議会を隔てていた最も辛辣な問題であるニカラグア問題に関して民主党の議会指導者と合意に至ることができた。レーガン政権とコントラは銃弾でニカラグアのサンディニスタ政権を打倒することはできなかったが、ブッシュ政権とヴィオレッタ・チャモロ(Violeta Chamorro)は投票で目的を達成することができた。
 大統領に就任した直後、ブッシュは、コントラを武装させ、サンディニスタ政権を打倒するというレーガン政権の方針を放棄した。レーガン政権のラテン・アメリカ政策が失敗したことを認め、議会の支持が欠如していたことを考慮してブッシュは議会と協調しようと努めた。ブッシュとジェームズ・ベイカー国務長官はニカラグアのコントラの支持者であったが、議会はコントラに対する新たな支援を認めないだろうと理解していた。コントラへの支援をめぐる立法府と行政府の長い活力を削ぐような争いを終わらせる超党派の解決策を探すために、ベイカー国務長官と議会の指導者は、1989年3月に終わる予定であった人道的支援を選挙が行われる予定の1990年2月までコントラに与えることで合意した。また初めて国外に逃れていたコントラがニカラグア国内に平和的に居住を希望するならば、支援を与えるという協定が成立した。 5,000万ドルにのぼる支援の中で最も論議を呼んだのは、もし大統領が議会の委員会の承認が得られない場合、1989年11月に援助を打ち切ることを約束した4つの添書である。そうした添書は実質的に大統領の行動に対する議会の拒否権に等しく違憲だと考えられる。それは外交に議会が過度に介入する先例となる恐れがあった。コントラがアメリカの新しい政策を歓迎する一方で、サンディニスタ政権は反対した。また議会の超保守派も反対した。ブッシュ政権は、1990年の選挙にコントラの参加を促すために国外での政治活動の資金援助を50パーセント削減した。
 ブッシュ政権は、ヨーロッパ諸国、ソ連、ラテン・アメリカ諸国、そして民主党議員から、1990年2月に公正な選挙を行うようにサンディニスタ政府を説得するように圧力を受けた。多くの者はチャモロが大統領選挙でサンディニスタ政権に勝利できる見込みは薄いと考えていたが、チャモロは積極的に選挙運動を展開した。チャモロは反サンディニスタ政権でまとまった14の政党からなる全国野党連盟を率いて1990年2月25日、大統領選挙に勝利した。チャモロは2ヶ月後に大統領に就任した。ブッシュ政権はニカラグアに対する経済封鎖を解除し、さらなる直接支援を約束し、コントラの解体を促進した。
 ブッシュは、反米の独裁者のマニュエル・ノリエガ(Manuel Antonio Noriega)を権力の座から引き摺り下ろすというパナマでの目的を達成するために外交ではなく武力に訴えた。ノリエガは従来、中央情報局と緊密な繋がりを持ち、アメリカの忠実な協力者であった。ノリエガは政権に就く前、イラン革命で亡命したパフラヴィーの警護を担当し、レーガン政権と協力してニカラグアのコントラを支援し、サンディニスタ政権の打倒を図った。その一方でノリエガはキューバのカストロ政権と親密な関係を持ち、国際的な麻薬密輸組織に関与していた。米ソ関係が好転し、ニカラグアの内戦がほぼ終結したことでアメリカにとってノリエガの政治的有用性は減退した。上院はノリエガの麻薬密輸、人権弾圧を非難する決議を採択した。その後、アメリカ大使館がパナマ軍によって襲撃された。レーガン政権はパナマに対する経済的、軍事的援助を差し止めた。さらにノリエガは1988年にマイアミで連邦起訴陪審によって告訴された。ブッシュの観点では、ノリエガは、選挙不正、資金洗浄、秘密の武器取引、キューバへの最先端の軍備の販売、麻薬売買など多くの不法行為を行っていた。反ノリエガ・クーデターが起こったが失敗に終わった。
 ノリエガが大統領選挙の結果を無効にした時に事態は動いた。1989年12月15日、パナマ議会はノリエガが合衆国と戦争状態にあると自ら宣言し指導者の地位を要求したのを容認した。5日後、ブッシュは1万2,000人のアメリカ軍を、在パナマのアメリカ人の保護、パナマの民主化、パナマ運河の円滑な管理、麻薬取引の取り締まり、そしてノリエガを捕らえるためにパナマに送り込み、ノリエガの身柄をアメリカ本土に移送し、麻薬売買、資金洗浄などの容疑で裁判にかけた。1992年4月9日、ノリエガは禁固40年の判決を受けた。ノリエガが無効にしていた大統領選挙の勝者であるギジェルモ・エンダラ(Guillermo Endara)が大統領として宣誓した。ブッシュはパナマ侵攻を「正義のための作戦」と呼んだが、それはヴェトナム戦争以来の大規模な軍事行動であり顕著な成功を収めた作戦であった。
 パナマ侵攻は成功したが世界中から批判を受けた。米州機構はアメリカ以外のすべての国がパナマ侵攻を非難した。国連総会は、75票対20票、棄権が40票でパナマ侵攻を国際法の侵害だと批判した。イギリス、カナダ、フランス、イタリア、日本がアメリカを支持する一方で中国とソ連はアメリカの行動を非難した。しかし、パナマ人自身はアメリカの行動を強く支持していた。世論調査によれば92パーセントのパナマ人がパナマ侵攻を正当だと認めていた。またアメリカ国内でもパナマ侵攻は評価され、ブッシュの支持率は高まった。

冷戦の終結

 さらにレーガン政権で進んでいた米ソ緊張緩和はブッシュ政権に移行した後、急展開を見せた。ゴルバチョフは、ペレストロイカと言われる一連の改革を打ち出したが、まさにそれこそがソ連体制の根源となる正統的レーニン主義やマルクス主義史観を損なわせる結果となったのである。現実に対応することを焦るあまりにソ連の指針となっていたイデオロギーの崩壊を招いたのである。東ヨーロッパの衛星国でも民主化の動きが活発になった。国民は、東ヨーロッパ諸国の各政府をソ連の傀儡であると思っていた。それ故、各政府は、国民の信頼を得るためにはソ連から離れるか、または秘密警察を使った独裁政治を行うかしかなかった。東ヨーロッパへの締め付けを強化することは、西欧諸国の警戒心を呼び起こすことになり、軍拡競争に陥らざるを得なくなる。しかし、東ヨーロッパを放棄することはソ連の威信低下につながる。ソ連はそのようなジレンマに陥ったのである。結局、ソ連は 1989年に東ヨーロッパを放棄した。ゴルバチョフはソ連体制を救済しようと改革を行おうとしたが、それはすなわちソ連がソ連たること、共産党が一枚岩であることを崩すものであった。自由化という考え自体が社会主義体制とは相容れないものだったのである。
 ブッシュは1989年5月11日にテキサス農工大学で行った演説で、アメリカの目標がソ連を諸国家の共同体に統合し、最終的にソ連を世界秩序に迎えることだと表明した。さらにブッシュはペレストロイカの成功を願い、西側はソ連が開放的な社会になるように支援しなければならないとして対ソ政策の転換を示した。さらにブッシュは、訪欧中、マインツで行った演説で、西側諸国が東側諸国の自由と民主主義を促進し、鉄のカーテンを開けるように努力し、ヨーロッパが1つになった時に冷戦は終結すると述べた。
 ブッシュは、ヨーロッパでのソ連の影響圏の崩壊とその直後のソ連自体の崩壊を見守った。ポーランドでは非共産党政権が成立した。ハンガリーでは政党結成の自由が認められ、オーストリアとの国境が開放された。東ドイツ市民はハンガリーに殺到した。ハンガリーは東ドイツ市民を送還することなく、オーストリアへの出国を認めた。東ドイツ政府がハンガリーへの出国を禁止すると東ドイツ市民はプラハやワルシャワへ脱出した。そして、11月9日、ベルリンの壁崩壊が起き、世界は冷戦の終わりを予感した。東欧全体で自由化と民主化が急激に進展し、共産党体制が次々と崩壊した。ソ連は東欧諸国の体制選択の自由を認め、何の干渉も行わなかった。12月2日に行われたマルタ・サミットで、ブッシュとゴルバチョフは共同で冷戦の終結を宣言した。約40年間にわたって続いた冷戦時代はここに終わりを迎えた。
 冷戦後のヨーロッパの最大の政治的課題はドイツ再統一であった。ブッシュはドイツ再統一を支持した。西ドイツは1989年11月末にドイツ再統一を目指す計画を早くも提案した。しかし、イギリスとフランスはドイツ再統一に難色を示した。ブッシュは西ドイツとともにイギリス、フランス、そしてソ連の説得にあたった。アメリカは1990年2月、東西ドイツがまず統一に関する内部問題について協議したうえで、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスが加わって対外問題を協議するという枠組みを提案した。その一方で、ソ連国内ではバルト三国の独立要求が高まっていた。アメリカは従来、ソ連のバルト三国強制併合を認めていなかったので、ソ連がバルト三国に経済制裁を課して独立要求を抑えようとするのに反対した。しかし、同時にブッシュはバルト三国の独立要求を認めることもなく、平和的に問題を解決するようにソ連とバルト三国に要請した。
 1990年にワシントンで行われた首脳会談で、ブッシュとゴルバチョフは、戦略兵器と化学兵器を削減し、核エネルギー研究で協調する枠組みを設けることで合意した。またドイツに関して、近隣諸国と現在の国境線を維持することで合意が成立した。ブッシュは統一ドイツが北大西洋条約機構に参加するべきだとしたが、ゴルバチョフは統一ドイツが北大西洋条約機構に参加するかどうかは国民の選択の自由に委ねるべきだと主張した。7月、ゴルバチョフはモスクワで西ドイツ首相と会談し、統一ドイツの北大西洋条約機構への参加を承認した。9月、モスクワ会議で東西ドイツとアメリカ、ソ連、フランス、イギリスの外相は統一ドイツに関する最終合意文書に調印した。そして、10月3日、統一ドイツが発足した。11月、パリで行われた歴史的会談で、北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構の加盟国は相互不可侵を誓約し、冷戦の終結を宣言した。パリ会談で両陣営は、戦車、大砲、ヨーロッパの核戦力を削減することに合意した。ソ連はヨーロッパにおける優位性を制限するために大幅な軍備の削減を認めた。ブッシュはこうした合意を「新世界秩序」の幕開けと呼んだ。ブッシュの新世界秩序は、暴力の恐怖からの自由、正義の追求と平和の希求、そして世界各国が調和の中で暮らせる世界の実現を目指した。しかし、それが米ソの協調を示すのか国連を中心とした集団安全保障体制を導入するのか、または国連を中心とした国際社会にアメリカの役割を分担させるだけなのか、必ずしも具体的な意味は明確ではない。
 ドイツ再統一や東ヨーロッパの民主化を目の当たりにしてソ連は衛星国からすべての軍隊を撤退させることを約束した。1991年3月、アメリカはレーガン政権が1983年にイギリスに配置した最後の核ミサイルを撤去した。1991年7月31日、アメリカはソ連と戦略兵器削減条約を調印した。さらに1991年12月にはソ連が解体した。ブッシュはソ連の解体についてアメリカ国民に向けて演説し、自由と民主主義の勝利を喧伝した。またブッシュは、ゴルバチョフの革命的政策がソ連と東欧諸国の人民が抑圧の時代を終え、自由の基礎を確立することを可能にしたと述べた。
 批評家は、大統領が共産主義の崩壊を公的に喜ぶ際にあまりに控え目であると批判した。積極的な政策はソ連の防衛的な反応を引き起こす恐れがあった。しかし、積極的な政策がなければ、新たに樹立された東ヨーロッパの民主的政府がアメリカに背を向ける可能性もあった。その一方で、ブッシュは共産主義の崩壊に対応する形で実質的だが厳格ではない防衛費の削減を行った。ヨーロッパで共産主義が倒壊してもブッシュの公的な立場は強化されなかった。レーガンの言葉と政策がいわゆる「悪の帝国」が崩壊するきっかけを作ったが、そうした勝利は国内の手に負えない問題に国民の目を新たに向けさせた。

湾岸戦争

 暫くの間、ブッシュの支配権は中東での危機によって回復した。ブッシュは、イラクとサダム・フセイン(Saddam Hussein)に対する砂漠の盾作戦に対する国際的な支援と資金援助を集めることに成功した。1990年8月2日のイラクによるクウェート占領は大統領の責任に対する挑戦であり、ブッシュが危機におけるリーダーシップを発揮できる状況を生み出した。国連安全保障理事会は即座にクウェートからの無条件の撤退をイラクに求める決議を採択した。ブッシュは外交面と軍事面で迅速で確かな手腕を発揮した。電話を通してブッシュは、イランに対する外交的、経済的、軍事的圧力を加える戦略について、ソ連、中国、日本、ヨーロッパ諸国、そしてアラブ諸国の指導者の支持を集めた。
 ブッシュは湾岸地域における軍備増強の口実を得るためにサウディ・アラビアにアメリカの支援を求めるように要請した。10月までにサウディ・アラビアに結集した多国籍軍は40万人に膨らんだ。11月初頭には多国籍軍の規模は70万人を超えるまでに拡大した。その中でアメリカ軍の規模はヴェトナム戦争最盛時とほぼ同じ約54万人であった。多国籍軍は、武力行使でイラク軍を撤退させない限りフセインにクウェートを手放させることはできないと確信した。1990年11月29日、国連安全保障理事会は安保理決議678号で1991年1月15日までにイラクがクウェートから撤退しない場合に必要とされるあらゆる手段を行使する権限を多国籍軍に与えた。さらに1991年1月12日、ブッシュは議会から安保理決議への支持と湾岸地域での武力行使の承認を得た。
 安保理決議で定められた日限が過ぎた後、砂漠の盾作戦は砂漠の嵐作戦になった。1月16日、多国籍軍の爆撃機はイラクの軍事施設や通信施設に対する38日間にわたる攻撃を開始した。ブッシュは砂漠の嵐作戦をクウェートを解放する作戦だとし、「的確な場所で、適切な時期に、申し分のない敵に対して行われる正当な戦争」であると述べた。
 イラクはイスラエルにミサイル攻撃を行うことでイスラエルを湾岸戦争に引き込もうとした。もしイスラエルがイラクに報復攻撃を行えばアラブ諸国が多国籍軍から脱退する恐れがあった。アメリカ軍はイラクのミサイルを迎撃するためにパトリオット・ミサイルを配備してイスラエルの参戦を回避した。これによりアラブ諸国の脱退が阻止された。
 多国籍軍は顕著な軍事的成功を収めた。多国籍軍の激しい空爆によってイラク軍は総崩れとなった。2月15日、イラクは講和を提案したが、国際連合によって拒否された。2月22日、ブッシュはイラクに24時間以内にクウェートから完全撤退するように求めた。しかし、フセインが要求を拒否したために2月24日、大規模な陸上侵攻が開始された。4日以内に多国籍軍はクウェートからイラク軍を追い出し、隣国を脅かさないように弱体化させた。1991年2月27日、ブッシュは湾岸戦争の勝利を国民に向かって報告した。

「クウェートは解放された。イラク軍は破られた。我々の軍事目的は達成された。クウェートは再びクウェート人の手に戻り、彼ら自身の運命を決めることができるようになった。我々は喜びを共有している。その喜びは、彼らの試練への同情によってのみ加味される。今夜、クウェートの旗が再び自由な主権国家の首都の上に翻った。そしてアメリカの旗が我々の大使館の上に翻った。7ヶ月前、アメリカと世界は砂上に境界線を設けた。我々は、クウェートに対する侵略はそのままにはされないと宣言した。そして今夜、アメリカと世界はその言葉を守った。今は陶酔する時でもないし、もちろん満悦する時でもない。誇りの時なのである。我が軍に誇りを。危機に際して我々とともに立ち上がってくれた友軍に誇りを。我が国と強さと決意で以って勝利を迅速で決定的かつ当然のものにした国民に誇りを。そしてもうすぐ、我々は両手を大きく広げて偉大なる戦闘部隊の帰国を迎えるだろう。この勝利を自らのものだと主張できる国などない。それはクウェートのためだけの勝利ではなく、同盟軍すべてのための勝利なのである。これは国際連合の勝利であり、全人類の勝利であり、法の支配の勝利であり、正しきことのための勝利なのである」

 クウェートに関する国連決議をイラクが受け入れることを約束した後、戦闘は停止された。イラクは3月3日に正式に停戦に同意し、4月6日に停戦が実現した。アメリカはクウェートを解放するという当初の戦争目的を果たした。しかし、ブッシュにとって驚いたことに、それにも拘わらず、フセインは政権の座を保った。ブッシュは、軍事的敗北によって、イラク国民自身がフセインを政権の座から引き摺り下ろすだろうと期待していた。北部のクルド人と南部のシーア派はフセイン政権を打倒しようと立ち上がったが鎮圧された。アメリカは保護を与えると約束したクルド人とシーア派に支援を行わず傍観した。最終的に湾岸戦争はヴェトナム戦争とまったく違った結果をもたらした。アメリカは実質的に10年かけてもヴェトナム戦争で勝利を収めることができなかったが、湾岸戦争では2ヶ月もかからずに勝利を収めることができた。またヴェトナム戦争では約5万人もの戦死者を出したが、湾岸戦争では多国籍軍すべての戦死者を合わせても約200人程度にとどまった。アメリカ軍は、ステルス爆撃機や夜間透視装置など最新鋭の兵器を惜しみなく使用し、その圧倒的な戦力を世界に見せつけた。ヴェトナムの苦しい記憶を払拭するような祝福の中、ブッシュの人気は絶頂に達し、89パーセントの支持率を獲得した。しかし、アメリカ軍が中東で軍事的存在感を増したことでアル・カイダはアメリカへの敵対心を強めた。それは後の同時多発テロの遠因となった。
 実質的にも政治的にも、湾岸戦争の勝利がブッシュ政権の分水嶺であった。後は下り坂がブッシュ政権を待ち受けていた。湾岸戦争によって引き起こされた愛国的な情熱は、議会と大統領の外交政策をめぐる根本的な違いを覆い隠しただけであった。それは立法府と行政府の新たなる戦いの予兆であった。イラクへ派兵する権限を大統領に認める投票によって、議会が党派に沿って明確に分かれていることが明らかになった。議会がイラクへの軍事行動を認めた時、上院では52票対47票、下院では251票対182票であった。共和党議員の中で反対票を投じたのは上院で2人、下院で3人であった。それに対して民主党議員の中で反対票を投じたのは上院で45人、下院で179人にのぼった。投票の後、民主党議員はブッシュの戦争遂行に協力することを誓った。
 しかしながら、ヴェトナム戦争に引き続いて定められた戦争権限決議に関して、湾岸戦争決議によって大統領に与えられた憲法上の権限をめぐる論争は残った。ブッシュは国内の分裂によって議会の承認を求めることを余儀なくされたと認めながらも、1973年に戦争権限決議が可決されて以来、戦争権限決議は違憲であるという歴代大統領が続けてきた主張を繰り返した。議会が湾岸戦争決議を可決した後に出した声明でブッシュは、イラクへの派兵を認める国連決議を大統領が実行するのに議会の支持は必要ないことを明言した。こうした大統領と議会の争いは「国家安全保障憲法」をめぐる不幸な挿話である。ブッシュ政権が戦争権限決議を否定したことは、安全保障問題において法に従って行動すると主張しながらも都合の良いように法を無視する詐欺であると歴史家は指摘する。
 国家安全保障憲法という概念は、1968年以降の分断された政府の時代によって引き起こされた議会と大統領の戦いにおける重要な要素である。こうした戦いは、大統領と議会の間に新しい協調の精神を醸成しようとするブッシュの穏健な試みを阻害した。結果的に、見解の統一を回復する状況は生まれず、湾岸戦争の後、ブッシュ政権の最後の2年間において、レーガンの政権と匹敵する程の国内政策をめぐる争いが起きた。
 ブッシュは手際の良い確実な手腕を外交面で示した。1992年の大統領選挙で敗れた後、ブッシュは歴史上、最も活動的な死に体の大統領になった。1992年12月と1993年1月に飢餓に苦しみ軍閥に支配されたソマリアに人道支援を行い、社会秩序を回復させるために2万5,000人のアメリカ軍を派遣した。ブッシュは北アメリカ自由貿易協定に調印し、ヴェトナムとアメリカの貿易に関する規制を緩和し、湾岸戦争後に締結された協定を遵守させるためにイラクを空爆し、アメリカと旧ソ連の兵器庫から核弾頭の数を約2万4,000発から6,500発以下に減らす第2次戦略兵器削減条約をロシアと締結した。

議会関係

 その一方でブッシュは、キャスパー・ワインバーガー元国防長官とレーガン政権の5人の政府高官にイラン=コントラ事件に関係するすべての犯罪行為に対して恩赦を与えた。そうしたブッシュの行為は、民主党議員を激怒させた。ブッシュの恩赦は政治倫理法に対する共和党の抗議を示している。大統領と補佐官は、イラン=コントラ事件に関する独立検察官が1992年の選挙の直前にワインバーガーとその他の関係者の告発を発表したことに激怒した。さらに独立検察官の声明は、人質の解放に関するレーガン政権の会談を記録していたことを否定する時にワインバーガーは嘘をついたと非難し、当時、副大統領であったブッシュがそうした会談の少なくとも1つに参加していたと主張した。武器と引き換えに人質の解放を求める取引に関して議論された時にブッシュは内情に通じていなかったと主張した。ブッシュは、独立検察官が不適切に政治駆け引きに関与していると非難した。
 大統領選挙後に行われた恩赦に関する声明の中でブッシュは、政治倫理法、特に独立検察官に関する規定を、政策の違いが犯罪とされてしまうとして批判した。ブッシュは政策の違いは政治的舞台で解決されるべきであり、裁判所ではなく投票所で判定されるべきだと訴えた。
 民主党議員と報道はレーガン政権の高官に恩赦を与えたと政治倫理法を批判したことを攻撃したが、ブッシュは独立検察官に対して大統領による初めての効果的な抗弁を行った。イラン=コントラ事件は政治倫理法に関する激しい議論を助長した。
 1988年の大統領選挙でブッシュは自身を、共和党の党大会における指名受諾演説でレーガンの国内政策の穏健な後継者であると表明した。ブッシュは、新しい税を増やさないという約束に加えて、「教育大統領」や「環境大統領」になることを約束した。就任演説の中でブッシュはレーガンへの感謝を表明しただけではなく、継続という言葉を繰り返し使った。さらにブッシュは、過去20年あまりにわたって分断された政府を特徴付けてきた党派的な争いを止めて新しい調和の精神を持つべきだと訴えた。民主党が支配する議会に直面し、レーガンのような弁舌の才能がなかったブッシュは、自らの目標を達成するためには政党の枠を超えた融和を呼びかけるしかなかった。
 ブッシュ政権は貯蓄貸付組合に対する緊急援助に関して議会と合意に至った。連邦住宅貸付銀行理事会は1988年に、数百の連邦の保険に加入している貯蓄貸付組合が支払い能力を失っており、数万の預金者の貯蓄と貯蓄貸付産業全体への信頼が脅かされていると報告していた。連邦預金保険基金を再充当するのに1,000億ドル以上を要することが分かった時、レーガンと議会は問題を先送りすることを決定していた。
 貯蓄貸付組合に関する危機はブッシュ大統領を就任1日目から待ち受けていた。ニカラグアのコントラへの支援と同じく、ブッシュは、議会指導者をホワイト・ハウスに招いて会談を行うことで超党派の合意を達成した。ブッシュ政権は、主に納税者に費用を負担させる案に賛成して、納税者と健全な貯蓄貸付組合の両方に費用を分担させることで緊急援助に資金を拠出する提案を放棄した。この妥協により、貯蓄貸付組合に関する規制が最も緩く、最大の貯蓄貸付組合の負債を抱えるカリフォルニア州、テキサス州、そしてフロリダ州などの強い反対は克服された。
 大統領に就任して2ヶ月後、ブッシュは次の危機に見舞われた。1989年3月24日、超大型タンカーのエクソン・ヴァルディーズ号がアラスカ南部のプリンス・ウィリアム湾で座礁し、1,080万トンの原油が漏出した。ブッシュはエクソン社の浄化活動を支援するために連邦軍を派遣した。アラスカ石油漏出委員会は、漏出事故の責任は、石油タンカー産業に適切な規制を課さなかった政府にあるとした。1991年10月、エクソン社は、損害賠償請求と罰金として10億ドルを支払うことで連邦政府とアラスカ州政府と和解した。さらにエクソン社は、浄化活動に25億ドルを費やした。
 レーガンと比べてブッシュは、注意のほとんどすべてを外交の長と最高司令官としての大統領の役割に向けた。国際的な勝利や危機を除けば、外交政策ではなく国内政策が選挙でたいてい大きな意味を持つ。国家安全保障と外交政策は近年の選挙で共和党が持っていた強みであり、かつての反対者、いわゆる「レーガンの民主党員」を共和党に引き付けるのに役立った。しかしながら、1992年までにソ連の崩壊によって共産主義の脅威が取り除かれ、国家安全保障と外交政策への関心は非常に弱まった。投票日に僅か8パーセントの投票者のみが大統領候補の選択にあたって外交政策が重要な要素になったと答えた。そう答えた者の中で87パーセントがブッシュに投票したが、他の多くの投票者はブッシュが1990年から始まった景気後退を無視して国際的な問題に奔走したと見なしていた。確かにブッシュは違ったように行動することもできた。1991年3月の砂漠の嵐作戦による勝利の直後、ブッシュの支持率は89パーセントまで上昇した。ブッシュは国内政策に関する立法計画を実現するように議会を促す絶好の機会を持っていたことになる。しかし、ブッシュはそのような立法計画を持っていなかった。
 当初、ブッシュは国内政策と外交政策において互酬的な手法をとり、共和党議員だけではなく民主党議員の政治的要求に対しても個人的配慮を行ったことで多くの議員から高い評価を得ていた。しかし、保守的な共和党議員の中には、党派を中心としたリーダーシップを発揮しようとしないブッシュの姿勢に満足しない者がいた。ブッシュが党派の違いを覆い隠そうとする限り、共和党は議会の多数派を掌握できないのではないかと彼らは恐れた。
 ある程度、国内問題に関してブッシュは取引を行おうとしたが、全体的に失敗に終わった。レーガンの後を引き継いだブッシュの主要な挑戦は、レーガンの概ね成功した経済政策の欠陥、特に巨大な財政赤字を解決することであった。しかし、ブッシュはその試みに失敗した。1990年、1991年度予算をめぐって深刻な党内の争いが起きた。財政赤字削減に関して民主党の議会指導者と合意を達成しようとしてブッシュは、ガソリンと暖房用燃料の消費税引き上げを含む財政に関する一括法案を受け入れた。その代わりに民主党の議会指導者は医療保険費の削減を認めた。この妥協はリベラル派の民主党議員と保守的な共和党議員を激怒させた。特に下院で強固な反対が起こった。リベラル派の民主党議員は医療保険費の削減と新しい税金の逆進性に反対した一方で、ニュート・ギングリッジ(Newton Leroy "Newt" Gingrich)率いる共和党議員は、ブッシュが新しい税を設けないという公約を破ることで彼らを裏切ったと考えた。保守派の共和党員や公約が破られたと怒る有権者からの非難の殺到に辟易したブッシュは、民主党議員との同意によって緘口令を布かれていると記者に語った。ブッシュはそうした姿勢を1992年の選挙運動の終わりまで続けた。
 民主党議員と共和党議員の支持者に助け舟を出すために、ブッシュはテレビ演説で一括法案をアメリカ国民に売り込んだ。これは、立法計画への支持を集めるために世論を喚起しようとするブッシュの初めての試みである。しかし、この試みは残念な結果に終わった。ブッシュの国民への訴えかけと政権の熱心な議会への働きかけにも拘わらず、大部分の共和党議員は妥協に反対するギングリッチに同調し、妥協を失敗に追い込んだ。ブッシュ政権の4年間の予算の不足額により、レーガン政権で累積していた3兆ドルの財政赤字にさらに1兆ドルの財政赤字が加わった。
 ブッシュは、レーガンが大統領であった時でさえ不人気であった環境や公民権に対するレーガン政権の保守的な姿勢を是正しようとした。ブッシュは1990年大気浄化法と1991年公民権法に署名した。しかし、いずれの場合もブッシュの改革に対する肩入れは完全ではなかった。公民権法は、人種的割り当てに関する長く激しい戦いの後にようやく成立した。大気浄化法はすぐにその効果を競争に関する委員会によって削減された。
 ブッシュの国内政策における失敗は政治的手腕の失敗ではなく目的の失敗であった。ブッシュは、連邦議員にホワイト・ハウス訪問、ゴルフ、蹄鉄投げ遊びなどを楽しむように求めた。有権者に影響を及ぼそうとブッシュは記者を同様にもてなした。そうしたもてなしは、非公式と公式の記者会見と合わせて、演説者の才能に恵まれなかったブッシュがメッセージをアメリカ国民に届けるのに役立った。こうしたもてなしの効果もあってか、ブッシュの拒否権は46回の中で僅か1回しか覆されなかった。野党に議会を支配されている大統領としてはそうした成功率は歴史的に前例のない成功である。
 大統領に就任した初期、ブッシュはワシントン政界に対する攻撃にほとんど関心を示さなかった。ブッシュは古い秩序に加わることに満足しているように思えたし、民主党議員に接触しようと努め、ひどく擦り切れたアメリカ政治の見解の統一を取り戻そうとした。しかし、ブッシュは自らの実践を擁護する理論を持っていなかったし、1988年の大統領選挙での傲然とした発言とイメージはレーガン時代の不調和が続くことを暗示していた。ブッシュが新たな税を設けないという公約を破ると、ブッシュ政権は漂流し始めたように見えた。明確な原則を持たずに議会と合意を達成しようとするブッシュの姿勢は、フォード政権やカーター政権を特徴付けたのと同様の孤立と弱点で現代的大統領制度を脅かした。

最高裁判事指名

 レーガンが最高裁判事の指名で失敗したのとは異なり、ブッシュは2人の最高裁判事指名を辛うじて上院に認めさせることに成功した。それは簡単な仕事ではなかった。1990年、ニュー・ハンプシャー州のデイヴィッド・スーター(David Souter)判事は適切な経験が不足していたためにその指名が議論の的になった。ブッシュ政権は最高裁を多数の保守派で占め続けることに成功したが、スーターはブッシュ政権が思っていたよりもリベラルであることが分かった。
 さらに1991年、ブッシュがアフリカ系アメリカ人で保守派のクラレンス・トマス(Clarence Thomas)控訴裁判所判事を最高裁判事に指名した時に激烈な争いが起きた。ブッシュは民主党が支配する上院でトマスの指名承認を獲得しようとした。しかし、民主党はアニタ・ヒル(Anita F. Hill)をトマスのよって行われた性的嫌がらせを立証させるために召喚した。公聴会の様子はテレビで放映され大きな反響を招いた。トマスの指名をめぐる戦いはアメリカを混乱に陥れた。上院はトマスの指名を52票対48票という僅差で承認した。その票差は1世紀以上の承認の歴史の中で最も僅かな差であり、ボークの公聴会で示されたような党派的分裂を反映していた。11人の民主党議員が賛成票を投じたことにより、トマスはボークのように承認を拒否される運命を免れた。11人の民主党議員の大半は南部の議員であり、ジョージア州出身であるトマスがアフリカ系アフリカ人の間に持つ強い影響力を考慮して賛成票を投じたのである。しかし、ヒルの告発を調査した公聴会は議会の歴史上、上院を動揺させるような最も辛辣な公聴会であった。さらにブッシュは37人の連邦控訴裁判所判事と148人の連邦地方裁判所判事を任期中に任命した。そうした指名はすべて上院の承認を得た。
 レーガン政権とブッシュ政権におけるボークの承認拒否とトマスの指名をめぐる争い、そして他の指名をめぐる争いは、分断された政府の時代において判事指名をめぐる争いが激しくなったことを示している。こうした争いは裁判所の判決をめぐる法的な争いに拡大した。上下両院を支配する民主党は、ブッシュ政権が特定の社会的な規定に関する司法府の後退を支持した場合でも、裁判所の判決を覆すことに躊躇しなかった。
 その一方でブッシュは、1989年、最高裁のテキサス州対ジョンソン事件の判決を覆そうと憲法修正を試みた。アメリカ国旗を公開の場で燃やしたグレゴリー・ジョンソン(Gregory Lee Johnson)はテキサス州法に基づいて2,000ドルの罰金と1年間の禁固を言い渡された。ジョンソンはテキサス州第5管区控訴裁判所に訴えたが敗訴した。次にジョンソンはテキサス州刑刑事控訴裁判所に控訴した。刑事控訴裁判所は、憲法修正第1条で認められている言論の自由を行使しただけであるからジョンソンは罰せられないと判定した。1989年、最高裁はテキサス州対ジョンソン事件を取り上げ、刑事控訴裁判所の判決を支持した。議会はアメリカの国旗を故意に傷付ける行為を罰する法を制定しようとした。最高裁の判決を覆すには法では不十分と考えたブッシュは法案に署名する代わりに国旗を燃やすことを禁じる憲法修正を求めた。1989年以来、そうした修正は何度か提案されているが発議には至っていない。 
 裁判所の法的解釈に関する最も激しい争いは1991年公民権法をめぐって行われた。同法は労働者が雇用主を差別で訴える権利を制限する9つの最高裁の判決を無効とし、差別に反対する訴訟において証明責任を雇用主に課す法的基準を復活させた。ブッシュは1990年に同様の法案に対して、雇用に関して少数派や女性に一定の割り当てを与えることになるとして拒否権を行使している。しかし、アメリカを混乱に陥れたトマスの公聴会の後、ブッシュは同法案を修正した法案に署名することを決意した。同時にブッシュは、民主党議員が期待したよりもずっと狭義の解釈を加えた署名に関する声明を発表した。
 1991年公民権法に付せられたブッシュの署名に関する声明は、ブッシュが議会の立法に関して用いた最も議論を呼んだ戦術の1つである。モンロー以来、大統領は単に法案に署名するだけではなく、法がいかに実行されるかを示した声明を付するのが慣例となっていた。署名に関する声明は大統領令のように暗示的な権限を持っていない。その代わりに署名に関する声明は、象徴的な声明であるだけではなく、行政機関が規則を作る際の指針であり、将来の司法府の判断に影響を与える手段である。ブッシュは憲法上で認められた拒否権とは違って、署名に関する声明によって大統領は議会の立法の特定の部分を無効であると宣言している。これまでの大統領も署名に関する声明を発表しているが、ブッシュはより多くの声明を発表し政策目標を達成しようとした。こうした手法により、大統領は議論を呼ぶ立法に関して議会と直接対決することを避けつつ、自らの立法的な目的を追求することができた。

結語

 議会と大統領の間の争いは立法や指名だけに限らないことがすぐに明らかになった。深刻な景気後退の中、1992年の選挙が近付くと、ブッシュ政権は、環境、消費者保護、そして身体障害者に対する差別に関して新しく提案された規制から経済を解放することに関心を向けた。ダン・クエール(Dan Quayle)副大統領を長とする競争に関する委員会は規制を監督する各省庁に対して、現行の規制や提案された規制に伴う犠牲が正当であるという事由を説明するように求めた。ブッシュはまた新しい規制に関して90日の猶予期間を定めた。ブッシュはまるで官僚制度に部外者として対抗しているようであった。
 同じくブッシュは議会に対抗しようとした。共和党の指導者は、ブッシュが1948年の大統領選挙におけるトルーマンの勝利を再現することを期待していた。トルーマンはローズヴェルトの後継者として困難な状況に陥っていたが、野党が支配する議会に対して積極的な選挙運動を展開し、自らだけではなく党にも勝利をもたらした。全国的な問題に関して議会を非難することでトルーマンの例に倣おうとするブッシュの試みは、トルーマンの「私が全責任をとる」という言葉を嘲笑するものであった。党に対する指導力も議会との争いも、ブッシュが問題に断固として対処しようとしているという印象を与えることはなかった。
 ブッシュ政権期に実質経済成長率は年平均1パーセントにまで落ち込んだ。それは大恐慌以来、最低の数字であった。アメリカ人の1人あたりの実質所得も落ち込み、失業率は7.8パーセントに達し、フーヴァー政権以来、最も多くの企業が倒産した。経済の悪化によって、歳入が減少したのにも拘わらず、歳出は失業保険、食料切符、その他の公的扶助の需要の高まりに応える形で増大した。
 1992年の選挙で、民主党はアーカンソー州知事のクリントンとともに勝利を収めた。12年間に及んだ与野党によって分断された政府の時代は終わりを迎えた。1989年の就任演説でブッシュは、分断された政府を特徴付ける党派的争いを新しい協調の精神に変えることを提唱した。しかし、深刻な議会と大統領の間の争いは、そうしたブッシュの試みを挫いた。大統領職と議会が異なる政党に支配されることは、現代的政党政治を特徴付けるイデオロギー的な分極化を相殺したいという有権者の願いの健全な現われかもしれない。しかし、ブッシュ政権は、分断された政府がいかに政治的責任の所在を不明確にさせ、つまらないことで政治を泥沼に嵌り込ませ、政治制度に対する信頼を損なうような有害な衝突を引き起こすか劇的に示した。クリントンの勝利は、現職大統領に対する拒絶というよりは抗議であり、議会と大統領の間の争いを終わらせたいという有権者の願いの現われであった。
歴代アメリカ合衆国大統領研究