ロナルド・レーガン 第40代アメリカ合衆国大統領

ロナルド・レーガン

Ronald wilson Reagan

生没年(1911年2月6日〜2004年6月5日)
在任期間(1981年1月20日〜1989年1月20日)
 
ロナルド・レーガン大統領の概要
貧しいアイルランド移民の子
  ロナルド・レーガンはイリノイ州タンピコで生まれた。父ジョン(1883.7.13-1941.5.18)と母ネリー(1885.7.24-1962.7.25)の2人の息子の年下の方であった。父ジョンはアイルランド移民一世であり、靴のセールスをしていた。レーガンは地元のユーレカ・カレッジを卒業後、ラジオ・アナウンサーになった。

映画俳優
 レーガンはラジオ・アナウンサーから映画俳優に転進した。第2次世界大戦に出征したが視力が悪かったためにほとんど実戦に参加することはなかった。戦後、22本の映画に出演した。映画界を離れ、テレビ番組の司会を8年間務めた。その後、カリフォルニア州知事選挙に当選し、2期8年在職した。1976年の大統領選挙で共和党候補指名を獲得しようとしたが失敗した。1980年の大統領選挙で候補指名に成功し、本選でも当選を果たした。

強いアメリカの復権
 大統領としてレーガンは強いアメリカの復権を全面に押し出し、グレナダ侵攻、リビア空爆、ペルシア湾への艦隊派遣など武力行使も辞さなかった。またSDI構想を打ち出し、軍備拡張路線をとった。その一方で、米ソ首脳会談を実現し、緊張緩和への道筋をつけた。小さな政府を標榜し、連邦職員の削減や減税、福祉予算の削減などを行ったが、財政面と貿易収支から「双子の赤字」を抱えた。


ロナルド・レーガン政権の概要
レーガン革命

 カーター政権の末期、大統領制度は有効に機能していないように見えた。党組織の弱体化、敵対的なマス・メディア、強力な利益団体、非協力的な官僚制度、攻撃的な議会、独断的な裁判所、そして失望した人民によって大統領は挫折するようになった。1961年から1980年に政権を担当した5人の大統領の中で2期をまっとうした大統領は1人もいない。
 レーガンが大統領に当選した結果、分断され腐敗したアメリカの政治状況によって、政策目的を実現し、人気を維持し、制御不可能なことに対する非難を避けようとする大統領の努力が妨げられると主張することはもはやできなくなった。フォードとカーターに比べて、レーガンは野心的な立法計画を1981年と1982年にわたって実現することができた。レーガンは反対なしで再指名され、容易に再選を果たした。レーガン政権の最初から1986年にイラン=コントラ問題が起きるまで、レーガンは、強力で人気のある指導者が政治制度の中心に大統領制度を復帰させることができるとアメリカ人を確信させた。ケネディ以来、最も人気のある大統領としてレーガンはホワイト・ハウスを去った。
 レーガンの政治的成功は、1932年の選挙のように1980年の選挙がアメリカの政治における政党の勢力再編の始まりになるのではないかという思惑を助長した。ニュー・ディールを推進しようとする政治的連合も1960年代以来、解体しつつあった。ニクソンもフォードも、そしてカーターも比較的保守的な大統領であり、ニュー・ディールや偉大なる社会に関連する政策に挑戦していた。しかし、彼らは一般的にリベラリズムに順応しており、ニュー・ディールや偉大なる社会に関連する政策の行き過ぎを抑えただけであった。それに比べてレーガンは明らかに保守的であると言われ、批評家の中には1980年の地滑り的勝利を「レーガン革命」と呼ぶ者もいた。
 レーガン革命はフランクリン・ローズヴェルトが築いた社会保障を提供し、経済活動を規制する大きな政府を解体しようとする試みに言及している。特にレーガン革命は実業の規制の行き過ぎに反対したが、レーガンは、ローズヴェルトのように大統領が官僚制度を積極的に主導する役割を否定したわけではない。ローズヴェルト以来のすべての近代的大統領のように、レーガンは法を積極的に執行する大統領の役割を受け入れていたし、官僚制度を管理しようと努めただけではなく、自身の政策構想を実現するために官僚制度を促進しようとした。
 レーガンはドナルド・デヴァイン(Donald J. Divine)を人事管理局局長に任命した。デヴァインは人事管理局の人員整理や予算削減を実行し、明確な法律上の根拠がない事業を廃止し、審査業務を集中管理しようとした。さらにデヴァインは行政機関に対する大統領の支配力を強化しようとした。省庁や大規模な独立組織の長に政治任命者の数を増やし、制度上、認められている人事権限を最大限行使するように勧めた。デヴァインは、政治任命者の増員に加え、意思決定の長官室への集権化といった手段で人事管理局における支配力を強めた。デヴァインのお蔭でレーガン政権は、政府人件費の削減、幹部による人事管理の強化、政府の規模の縮小に成功した[ デイヴィッド・ルイス、『大統領任命の政治学―政治任用の実態と行政への影響』(稲継裕昭監訳、ミネルヴァ書房、2009年)、55。]。
 実際は1980年の選挙が意味するところは些か曖昧である。レーガン、カーター、そして、ジョン・アンダーソン(John Anderson)の3人の候補者の中でレーガンは44州と489人の選挙人を獲得し圧倒的な勝利を収めた。レーガンはカーターを一般投票で9.7パーセントも上回り50.7パーセントを獲得したが、その数字は1976年の大統領選挙で敗れたフォードと比べると僅か2.7パーセントしか違わなかった。議会の選挙結果はさらに印象的であった。1952年以来、初めて共和党は上院で多数派となり、何人ものリベラル派の著名な上院議員が議席を失った。下院でも共和党は躍進したが、民主党は多数派を維持した。
 レーガンは就任演説で「連邦機構の大きな影響力を抑制し、また連邦政府に付与された権限と、州や人民に留保された権限との間に区別認識を求める」ことを宣言した。レーガンは、連邦から州政府や地方政府への補助金を削減し、政府事業の管理を州政府や地方政府に委ねようとした。レーガンの計画は初めは成功を収めたものの、議会や財政負担の増大を嫌った州政府や地方政府の反対にあい頓挫した。
 不確かな国民からの信任を確かな立法上の業績に変えるレーガンの才能はレーガンが弁舌的才能を持つ証である。批評家はレーガンの弁舌的才能を元俳優が脚本を読んだり話したりする際に使う巧妙な手法に過ぎないと否定する。しかし、レーガンの支持者は、レーガンの言葉には論理と実質があり、レーガンは「偉大なる伝達者」ではなく、ウィルソン、セオドア・ローズヴェルト、フランクリン・ローズヴェルト、そしてケネディのように国民を導く未来像を提示できる「偉大なる雄弁家」だと主張する。
 1980年代以降、大統領は毎週、ラジオ演説を行うようになった。特定の問題に関して約5分間程度、行われる短い演説である。話題は主に国内政策や経済政策に限られ、テレビを視聴しない有権者を対象とした。こうしたラジオ演説は、若い頃にラジオで活躍したレーガンに適していた。ラジオ演説の内容はしばしば週末のテレビのニュースで取り上げられたり、新聞で取り上げられたりしている。クリントンとジョージ・W・ブッシュはレーガンが始めたこの慣習を続けたが、ジョージ・G・W・ブッシュはあまりラジオ演説を行わなかった。オバマは毎週のラジオ演説をビデオ演説に変えた。オバマのビデオ演説はホワイト・ハウスのホーム・ページやユー・チューブなどでも見ることができる。こうした手段により報道の手を借りずに大統領は直接人民に訴えかける手段を獲得した。
 レーガンの政治思想は1964年10月27日に全国に放送された演説で既に示されている。レーガンの演説は、中央集権化された政府が自由な人民を弱めるという主題で貫かれていた。強大な連邦政府はアメリカの自由の概念を歪ませるので、本来、奪うことができない自然権は政府が与えたものだと思われるようになる。それは、人民から自恃と自治の能力を奪う。人民の自由を破壊する者は、政府の助成金や給付金を拡大させようとする者である。17年後、レーガンは就任演説の中で限定された政府の概念を展開した。そうした概念が就任演説で示されることは50年以上、絶えてなかった。レーガンはアメリカの政治的展開を根本から変える見解を提示した。

「この現在の危機で、政府は我々の問題の解決策ではない。政府が問題である。時々、我々は、社会は複雑になり過ぎて自治ではうまくいかず、エリート集団による政治が人民の人民による人民のための政治に優っていると信じる誘惑に駆られる。もし我々の中で誰も自分自身を支配できないのであれば、我々の誰がその他の者を支配できる能力を持っているだろうか。我々は政府の外でも中でも一緒になって重荷を背負わなければならない」

 レーガンの演説はニュー・ディールの根本的な原理に挑戦するものであった。レーガンは何か新しいことを言ったわけではない。ニュー・ディールと偉大なる社会によって作り出された政治的文脈の中でレーガンは伝統主義を支持し続けただけである。しかし、レーガンは福祉国家への挑戦を発表する際にフランクリン・ローズヴェルトへの敬意を示している。実際、レーガンは自分自身をローズヴェルトに関連付けようと多大な努力を行っていた。1980年、共和党の全国党大会における大統領候補指名受諾演説でレーガンはしばしばローズヴェルトに言及したので、ニュー・ヨーク・タイムズは翌日の社説に「フランクリン・デラノ・レーガン」という題を付けた。
 ローズヴェルトを引用することはレーガンが中道に向かおうとしていたことを意味しているわけではない。むしろレーガンは保守的な目的でローズヴェルトを利用しようとしていた。レーガンは、1932年7月に行われた民主党の全国党大会でローズヴェルトが大統領候補指名受諾演説で述べた不必要な政府の機能を削減するという約束を実現することを呼びかけた。レーガンはローズヴェルトを引き合いに出すことによって、ニュー・ディールの失敗を劇的に演出し、長らく訴えてきたように政府は大きくなり過ぎ、人民の手が届かなくなったという主題を浮かび上がらせようとした。
 レーガンがローズヴェルトを同一視する姿勢は、ローズヴェルトが近代的大統領制度の権限を十分に活用してアメリカを導いたように自分もアメリカを導きたいという願いを反映していた。ニクソンはアメリカをニュー・ディールから脱却させるために効果的に大統領職が利用できる可能性を示した。公共政策に関して、レーガンの計画は、ニクソンと比べるとそれ程、回顧的ではなかったし、クーリッジの制限された政府の擁護と比べてもそれ程、実践的ではなかった。レーガンの演説はクーリッジの演説のように制限された政府への大統領の肩入れを道徳的な言葉で人類に利益をもたらす正しい主義として表現した。クーリッジはレーガンに最も影響を与えた大統領の1人である。レーガンの演説を作成する際にスピーチライターはクーリッジの演説を研究した。またレーガンがホワイト・ハウスに入って最初に下した命令が、東翼棟にあるジェファソンの肖像画をクーリッジの肖像画に架け替えることであった。

議会関係

 レーガン政権の政策を楽観視できない政敵は、大統領の言葉が厳しい保守的な政治哲学を包み隠しているに過ぎないと見なした。しかし、レーガンの言葉と政治思想は、多くのアメリカ人が共有する政治的価値観を揺り動かした。レーガンの単純明快な言葉や威厳ある態度はアメリカ国民を魅了した。レーガンは弁舌の才能に加えて議会の指導者としての技術も持っていた。レーガンの側近はカーター政権の失敗の原因を究明し、それをレーガン政権の最初の1年の戦略に活かした。カーターの乱雑な一連の立法提案とは異なり、レーガンは福祉国家の縮小と軍備の拡大という2つの主題に的を絞った。レーガンはそうした主題を大規模な所得税の減税と主要な国内政策に関する支出の削減、規制緩和、そして、国防費の増加という提案で体現した。
 レーガンの方向性を明確に指し示す能力は、カーターと異なる唯一の点ではない。カーターと同じく、レーガンはワシントン政界の弊害に抗議する形で大統領に立候補した。しかし、大統領に当選するとレーガンは、ワシントン政界を攻撃を続けることにはもはや意味がないと認識するようになった。レーガンは議員との関係構築に多大な注意を払い、しばしば会談を行うために連邦議会議事堂を訪れ、重要な表決がある場合は議員に直接電話した。
 議会とのレーガンの個人的関係は強力な大統領府によって支えられていた。ホワイト・ハウスの職員を選挙運動で活躍した人々で占めようとしたカーターと違って、レーガンは、大統領府の主要な2つの機関であるホワイト・ハウス事務局と行政管理予算局を個人的に忠誠心のある人々だけではなく、過去の共和党政権で手腕を発揮した人々で占められるようにした。レーガンの有能で経験豊富なホワイト・ハウスの職員は、公共政策の詳細に関する大統領の知識不足を補った。
 レーガンの人民への熱心な訴えかけと議会に対する盛んなロビー活動によってレーガン政権は、ウィルソンのニュー・フリーダム、ローズヴェルトのニュー・ディール、そしてジョンソンの偉大なる社会に匹敵するような立法提案を1981年に推進した。レーガンは議会に財政政策の根本的な変更を求めた。国内政策に関する350億ドル以上の支出の削減、複数年度にわたる総額7,500億ドル以上の減税、そして3年にわたる27パーセントの国防費の増額である。
 レーガン政権の最初の1年は、立法者の長としての大統領の地位を復活させたように思われた。議員の関心を引くことによって、そして必要であれば議会の頭越しに人民に訴えかけることによって、民主党が下院で多数派を占めているのにも拘わらず、レーガンは立法過程に効果的に自らの意思を反映させることができた。そうすることでレーガンは、1974年に議会が財政政策に対する影響力を強化しようとして制定した議会予算及び執行留保統制法を完全に変えた。
 デイヴィッド・ストックマン(David Stockman)行政管理予算局局長は、議会予算及び執行留保統制法の1つの規定を使って議会を大統領の計画に縛り付ける方法を発見した。その規定は、議会がその予算作成活動を効果的に調整するための調停過程に関する規定である。調停過程によって、両院の予算委員会は、予算に関して提案されたあらゆる変更を1つの法案にまとめる権限が与えられる。一つひとつの提案が行政府の計画に適合しているか追求するよりも1つの法案にまとめられているほうが、行政府の計画に支持を得ることが容易になった。こうした試みにより、行政府は予算に関してさらなる統制力を持つようになり、議会の意思を出し抜くことができるようになった。
 1981年4月28日にテレビ放送された議会に向けた演説の後で、レーガンは包括的な予算に関する議決で実質的な勝利を収めた。議決は、防衛費の増大、国内計画に対する歳出の削減、そして大規模な減税などレーガンの予算に関する方針のすべての方針を含んでいた。議員の中にはレーガンの成功を、ウォーターゲート事件後に独立性を取り戻そうとする議会の試みを劇的に後退させるものだと見なす者もいた。

レーガノミクス

 ジョンソンの偉大なる社会のように、こうした公共政策はホワイト・ハウスで発案され、大統領と議会連絡局の職員によって議会を通過した。しかし、ジョンソンの計画と同様に、レーガン政権の公共政策は行政府で慌しく準備されたものであり、貧困に対する戦いのように、議会は計画を練り上げる際に実質的に何の役割も果たしていなかった。結果的にレーガンの計画は偉大なる社会と同様に幾つかの欠点があった。減税額は、支出の削減をはるかに上回っていた。それに防衛費の増額が加わった。保守派は、減税は財政赤字を増やすことはないと主張していた。さらに供給側重視の経済学者は、大規模な減税により生産性が増すことで1984年までには予算は均衡すると主張した。インフレは利子率とともに低下する。その一方で投資家のインフレ懸念が緩和されるために貯蓄は増加する。
 供給側重視の経済学者の予測の幾つかは的中した。最終的に経済は好況を迎え、連邦準備委員会の主導でインフレ率は劇的に下がった。レーガン政権の最大の経済的業績は、インフレ率の低下と新しい雇用の創造である。その他の業績では功罪相半ばしている。1982年11月に始まった経済の拡大は第2次世界大戦以来、平時で最長であったが、それは大恐慌以来、最悪の景気後退の後に訪れた。1987年8月、株価は歴史的な高値を記録したが、2ヶ月後、急落した。連邦所得税は大幅に削減されたが、州税は連邦事業の打ち切りを補うために引き上げられ、その他の税金、社会保障税や受益者負担金は上がった。そのためにアメリカ政府の財政を調査している税財団は、レーガン政権期、平均的なアメリカ人の全体的な税負担はほとんど変わらないか、または増加したと見積もっている。さらに連邦支出は国民総生産に占める割合で増加し、それ以前のすべての政権をあわせたよりも大きい財政赤字を生みだした。毎年、アメリカ人は可処分所得からすると、ますますお金を使うようになり、収入に占める貯蓄の割合からすると、ますます貯蓄しなくなった。そうした支出は外国製品に向けられ、貿易赤字を増大させた。レーガン政権期にアメリカは最大の債権国から最大の債務国に転落した。
 レーガンがとった供給側重視の経済政策は、減税が個人の貯蓄と投資を促進し、それが産業基盤の改善に繋がり、経済を強化し、生産性を押し上げ、多くの雇用を生み出し、十分な歳入をもたらし、政府支出の削減とともに予算を均衡させ、したがってインフレが抑止されるという考え方である。連邦準備制度理事会の金融引き締めと世界的な原油安に助けられて、レーガン政権はインフレ抑止に成功し、1970年代の賃金と物価に関する負のスパイラルへの懸念を払拭した。レーガンが就任した時、インフレ率は13パーセント以上であったが、1986年には2パーセント以下に下がり、それ以外の年も4パーセントから5パーセントで安定した。
 しかし、インフレ抑制を助けていた高い利子率は、1982年11月に底を打つまで、既に弱体化していた経済をより深刻な経済停滞に陥らせるのではないかという懸念があった。レーガンが就任した時、7.5パーセントだった失業率は10.8パーセントに上がった。大恐慌以来の高い率である。銀行の倒産数は1940年以来、最高を記録し、破産と農場差し押さえは記録的な数に達した。しかし、経済が回復し始めると失業率は徐々に下がり、レーガン政権の終わりまでに5.3パーセントに下がった。レーガン政権期、200万の新しい雇用が創造され、1分に5つの雇用が生み出された。レーガンが退任した時、1億1,800万人のアメリカ人が職に就いており、その数字は史上最高である。
 しかしながら財政赤字は失業率よりも御し難かった。レーガンは繰り返し予算の均衡を義務付けることを憲法修正に加えることを提唱したが、レーガン自身が予算を均衡させることができなかった。1981年10月、財政赤字は史上初めて1兆ドルを超え、レーガンが退任するまでに2倍以上になった。公債の年間利子は1,500億ドル以上にのぼり、予算で社会保障給付と防衛費に次ぐ項目となった。1982年、年間財政赤字は歴史上初めて1,000億ドルを超え、続く4年のうち3年は2,000億ドルを超えた。1985年12月、レーガンは、1990年代初期までに均衡予算を達成するために財政赤字削減の目標を定めたグラム=ラッドマン=ホリングス法に署名した。1986年に制定された徹底的な税制改革は、税金逃れの会計手段を規制し、税負担を個人から企業に移し、課税台帳から数百万の低所得者を除外したが、所得税の累進性が緩和され、富裕層にとって思いがけない恩恵となった。レーガン政権は総額450億ドルの社会事業を削減したが、特に防衛費の増大によって相殺された。レーガンは退任するにあたって、最も残念に思うことは予算を均衡させるという1980年の大統領選挙の公約を果たせなかったことだと語った。レーガンはその失敗の原因が政権にあるのではなく、議会、特殊権益、報道のいわゆる「鉄の三角形」にあると批判した。
 レーガンの財政政策は予期しない結果をもたらしたが、それにより国民の評価が低下することはなかった。1982年の景気後退のような政治的逆境にあってもレーガンは自信を失わず最後まで諦めない姿勢を示した。ジョンソンと違って、レーガンは自身の正しさと大統領職の正統性について悩むことはほとんどなかった。1983年に経済が好転し始めたことはレーガンの自信が正しいことを証明しているように思われた。

党組織の変化

 1982年の中間選挙で民主党が勝利した後でも、政党の勢力再編というレーガンの希望は衰えなかった。レーガン自身は1984年の大統領選挙で58.8パーセントの一般投票を獲得し、525人の選挙人を獲得した[ CQ Press, Presidential Elections 1789-2008 (CQ Press, 2010), 165.]。そのことはアメリカが正しい方向に向かっているというレーガンの確信を強めた。レーガンは、1980年と1984年の勝利によって新しい保守的な政治理念の基礎が築かれたと信じていた。
 新しい政治の時代を始めようとするレーガンの試みは政党政治の刷新から恩恵を得た。現代的大統領制度の発展は、伝統的な猟官制度に基づく党組織を著しく衰えさせた。1970年代後半から1980年代の政党の組織的発展は新しい形態の政党政治が出現したことを示していた。党派的傾向の強い政治の衰退によって、より全国的で問題志向型の党組織が形成され、大統領と政党の新しい関係が構築された。
 共和党は強力な党組織を形成し、1980年代において全国水準で前例のない強さを示した。再構成された党組織は猟官制度よりも政治問題や政治資金の調達で結び付くようになり、伝統的な党組織に比べて大統領の個人的抱負の障害にならなくなった。1984年までに共和党は強固な保守派の政党になった。
 レーガンは、近代的大統領制度の伝統を破壊し、自らを緊密に共和党に結び付けることによってこうした変化を助長した。レーガンは共和党の政治的基盤の強化に努めた。共和党やその候補者のために寄付金を募る手助けをするレーガンの姿はホワイト・ハウスの職員さえも驚かせた。レーガンと共和党の緊密な関係は相互にとって有益であった。またレーガンの経験は、現代的大統領と近代政党の間の関係が互恵的になり得ることを示していた。共和党の支持は大統領の個人的人気の向上と議会での立法提案の推進に役立った。大統領は共和党議員の寄付金集めに協力し、有権者に共和党議員に投票するように促した。1984年の選挙の後に行われた調査によると、1940年代以来、初めて共和党は民主党とほぼ同等の政党支持率を得た。
 1980年代は、新しく強化された大統領と党組織の関係の転機であった。共和党の後塵を拝すことを恐れた民主党もリベラリズムをイデオロギーの中心に据えたより全国的で政策志向の政党に変化した。ニュー・ディールから偉大なる社会までの時代を経て、さらに共和党の保守派の伸張によって、議会で伝統的な南部の民主党議員の存在感は減少した。第75議会で南部の13州には120議席が下院で割り当てられていたが、そのうち117議席を民主党が掌握していた。そして、第100議会で南部の13州には124議席が下院で割り当てられていたが、民主党が掌握していた議席は85議席に減少していた。さらに1965年投票権法によって南部でアフリカ系アメリカ人の投票数が増えた。そのことにより南部の民主党議員の投票行動が変化した。
 党組織が変化したのにも拘わらず、レーガン革命は統制のとれた政党政治の新しい夜明けとはならなかった。レーガンは自らの個人的人気を以って共和党が議会を支配できるようにすることはできなかった。レーガン政権は、有権者に共和党による政治勢力の再編やリベラルな計画の根本的な再編を支持する理由を与えるような党派色に彩られた計画を滅多に提示しなかった。レーガンは1984年の大統領選挙で民主党と共和党がそれぞれ示す未来への選択を有権者に迫るような限定された立場をとらず、「アメリカに再び朝が来る」といったような当たり障りのない主題を掲げた。そのため1984年の大統領選挙でレーガン自身は地滑り的勝利を収めたが、民主党は下院で多数派を確固として維持した。さらにレーガンは1986年の中間選挙で有権者に共和党に投票するように呼びかけたが、民主党は下院で多数派を維持し続けただけではなく、上院で多数派を取り戻した。ホワイト・ハウスは、共和党全国委員会や候補達と緊密に連携したが、党派的傾向が強いメッセージを出すことを避けていた。
 共和党による完全な政治勢力の再編をもたらすことに失敗したことはレーガン政権の業績を損なった。それにも拘わらず、レーガンは大統領として多くの業績をあげた。1981年の税制と予算に関するレーガンの勝利は福祉国家を解体させることはなかったが、政策の優先順位を再編する状況を生み出した。減税と防衛費の増大によって生み出された莫大な財政赤字は、民主党が支配する議会が新しい計画を制定する能力を制限した。実際、レーガン政権期の大半、議会は主要な計画を1つも制定していない。1986年、レーガン政権の主導によって制定された税制改革法は、伝統的に所得税率を高めることを可能にしてきた控除を廃止し、所得税率を下げ、歳入を増やそうとする議会の見込みを減らした。

レーガン・ドクトリン

 レーガン政権は歴史上、平和時で最大の軍備を行った。レーガンは、ヴェトナム戦争の記憶がまだ国民の間に残っているのにも拘わらず、海外に軍隊を展開することが政治的に可能であることを示した。1983年、戦争権限決議を無視して、グレナダに侵攻し共産主義政府を打倒することによってレーガンは最高司令官としての権限を主張した。マルクス主義者の軍事クーデターによる混乱から数百人のアメリカ人を救うためにレーガンはグレナダにアメリカ軍を派遣した。アメリカ軍を解放軍と歓迎するグレナダ人の支援を得て、アメリカはマルクス主義者の政権を打倒することに成功した。レーガンは約束通りクリスマスまでにアメリカ軍を撤退させた。
 1985年2月6日、レーガンは一般教書で、「我々は民主主義を信奉するすべての同盟諸国を支援しなければならない。そして、アフガニスタンからニカラグアに至るまですべての大陸において、自らの命を賭けてソ連が支援する侵略行為に抵抗し、生まれながらに保持している権利を守ろうと戦っている人々の信頼を我々は裏切ってはならない」と述べ、反共産主義勢力による反政府活動を支援する政策を明らかにした。これはレーガン・ドクトリンとして知られるようになった。中央情報局は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗するイスラム過激派、アンゴラやエチオピアの反政府勢力、ニカラグアのサンディニスタ政権に抵抗するコントラ、反政府勢力と戦うエル・サルヴァドルの親米政権などを支援した。レーガン・ドクトリンは、アメリカ軍による大規模な軍事介入をできるだけ避け、同盟国や親米勢力への支援を強化することで、アメリカの冷戦戦略に合致しない政権を打倒することを主目的にした。
 1986年、レーガンは2人のアメリカ人兵士の命を奪った西ベルリンへのテロリストの攻撃に対する報復としてリビアを爆撃するように命じた。両国はレーガン政権初期から衝突していた。シドラ湾で軍事訓練中に2機のリビアの航空機がアメリカによって撃墜された。1985年10月、テロリストはイタリアの船をハイジャックし、アメリカ人乗客を殺害した。アメリカはハイジャック犯を乗せた航空機の飛行を妨害し、イタリアに着陸させた。リビアはローマやウィーンで起きた爆発事件に関与していた。グレナダ侵攻やリビア爆撃は、軍事的関与の期間が短く、犠牲者が少数であり、勝利が確実であったために、大統領に対する国民と議会の支持は高かった。

イラン=コントラ事件

 しかし、重要な問題についてレーガンは次第に多くの反対を受けるようになった。1982年以後、議会は国内政策に関する支出をこれ以上減らすことを拒否した。さらに議会はレーガン政権に再軍備計画を遅らせ、海外軍事支援法案に多くの修正を加えることでニカラグアの反マルクス主義反乱軍、いわゆるコントラを支援しようとする大統領の試みを抑制した。
 大統領に就任した直後、レーガンは、エル・サルヴァドルのゲリラを支援しているという理由でニカラグアへの支援を差し止めた。その代わりにレーガン政権は、マルクス主義者が率いるサンディニスタ政権を打倒しようとするコントラに秘密裡に支援を与えた。中央情報局がニカラグアの港湾に機雷を設置するように指示したことが1984年に暴露されると、議会はコントラへの軍事的支援を差し止めるボーランド修正を可決した。1981年の大統領令で連邦職員が海外での暗殺に関与することが禁止されたのにも拘わらず、サンディニスタ政府の役人をどのように殺害し、無力化するかコントラに示した手引き書を中央情報局が準備していたことが分かると、議会のコントラへの支持はますます低下した。
 増加する議会の反対に直面して、ホワイト・ハウスはニクソンが採用した組織的な抵抗と同様の戦略を採用することにした。ニカラグアのコントラを支援するために、国家安全保障会議の構成員の中で秘密の諜報機関が設立された。この諜報機関は例えば議会がニカラグアの反乱軍に軍事支援を続けることを拒んでも拒まなくても作戦を続行し、議会が容認しないようなこと、例えばイランへの武器販売のような作戦を続行した。秘密の諜報機関はレーガン政権を政治的危機にさらし、結果的にイラン=コントラ事件に繋がった。
 1986年11月、武器がイランに販売され、その収益金の一部がニカラグアのコントラを支援するために使われていることが明らかになった。それは国際連合の制裁に反していた。イラン=コントラ事件に対する国民の反応は劇的であった。レーガンの支持率は1ヶ月で67パーセントから46パーセントに下がった。イランへの武器販売は、明らかにレバノンのベイルートでテロリストによって人質になっている7人のアメリカ人を解放するために行われたが、明らかに違法ではなかった。しかし、それはレーガン政権の厳しい反テロリズム政策と食い違っていた。1980年にアメリカ政府はイランと断交し、武器禁輸を課すとともに1984年、イランをテロ支援国家に指定していた。さらにイラン・イラク戦争でレーガンはイラクを支援した。しかし、イラクの強大化を懸念するイスラエルは、イランへの武器売却と引き換えにレバノンのアメリカ人人質を解放する提案をアメリカに行った。その結果、1,600万ドルにのぼる武器が売却され、アメリカ人の人質は解放された。武器売却の利益のうち380万ドルがニカラグアのコントラ支援に流用された。こうした流用は1985年に議会がコントラに支援を行うことを禁じたボーランド修正に違反していた。
 レーガンはイラン=コントラ事件への関与を否定したが、司法長官に調査を命じ、関係者の罷免と辞任を発表した。議会、報道、そして国民からの強い政治的圧力に対応してレーガンはジョン・タワー(John Tower)元上院議員を超党派の監査委員会の長に任命した。1987年11月、タワー委員会は、レーガンの関与を裏付ける証拠を発見することができなかったが、大統領の国家安全保障会議への権限委譲、不十分な監督を批判し、レーガンは側近の行動の最終責任をとらなければならないと指摘した。さらに同委員会は、関係者が議会の意向を無視して違法な活動を行うことを認めたレーガン政権の統治形態を全面的に非難し、大統領は側近の言動に左右される傀儡に過ぎないと示唆した。イラン=コントラ事件は単に大統領の不注意がもたらした問題ではない。それは、外交政策を議会の介入なしで行おうとするレーガン政権の動きを象徴していた。レーガン自身の行動に違法性が認められることはなかったものの、レーガンの指導力の問題性、イランの国内情勢に関する深刻な判断の誤りが暴露され、政権にとって大きな痛手となった。
 レーガンがコントラへの資金の流用を知っていなかったとしても、その知らせで驚くことはなかっただろう。いわゆるレーガン・ドクトリンは、ニカラグア、アンゴラ、そしてアフガニスタンなどの第三世界のマルクス主義の国家に対する反乱を合衆国が支援することを約束していた。レーガンは、国家安全保障担当補佐官に、コントラの抵抗を完全に活発にしておきたいと語っている。委員会の少数派、つまり共和党員による報告は、レーガンは、ニカラグア政策の要点について下僚に明確で継続的な指示を与えていたと結論付けた。
 レーガンがコントラを支援する試みを支持した少数派の報告に署名した共和党議員の多くは、レーガン政権が議会に何をしているか十分に公開しなかったことを残念であると思っていた。もしレーガンがボーランド修正に対して拒否権を行使することで議会と直接対峙し、人民に支持を求めていれば、政策への支持を集めようとするレーガン政権の試みは成功しただろうと彼らは論じた。
 議会と公然と対決するのではなく、議会を出し抜こうとするレーガン政権の戦略は、大統領の政党を主導するリーダーシップの限界とヴェトナム戦争とウォーターゲート事件以来、外交問題に関して大統領に課してきた法的制約の非効率性の証となった。新しく改革された党組織の中で育まれた協調の精神は管理大統領制度を通じて政策を実現しようとするレーガンの姿勢によって崩壊した。イラン=コントラ事件は、事情に疎い大統領が国家安全保障に関わる決定の形成過程において管理上の過ちを犯したために起こったわけではない。それは外交政策における大統領の特権が回復する兆しであった。

社会保障改革

 外交政策におけるレーガン政権の管理大統領制度の利用は常軌を逸しているわけではなかった。大統領や補佐官が国内政策であれ外交政策であれ、議会の抵抗に直面した場合、彼らはその目標を達成するために行政的手段を単独で行使する。彼らはしばしばリベラルな計画の基礎となる法を修正しようと試みようとせず、行政府の自由裁量権に依存した。ホワイト・ハウスの職員に政策形成の権限が集中しただけではなく、官僚を監督し、大統領の政策を推進するためにレーガンに個人的に忠実な者が省庁に送り込まれた。管理大統領制度の利用が顕著になったのはニクソン政権であったが、そうした戦略を完成させようとしたのはレーガン政権である。
 レーガンの最も議論を呼んだ行政的措置は社会保障を標的にした措置である。1981年5月、共和党議員にさえ相談することなくレーガンは早期退職者に対する給付金の即時削減を提案した。早期退職者とは65歳まで務めて満額の給付金を受け取る代わりに62歳から64歳の間で退職して減額された給付金を受け取ることを選んだ人である。またレーガン政権は、最低給付額を保証した規定を撤廃しようとした。社会保障給付金を削減しようとするこうした試みは議会の激烈な反応を引き起こした。両党の議員はレーガン政権に対抗した。上院は全会一致で早期退職者の給付金削減に反対した。下院は405票対13票という圧倒的な票差で最低給付額を保証した規定の撤廃に反対した。議会の反対は党派を超えたものであったが、トマス・オニール(Thomas P. O'Neill)下院議長はレーガン政権の失態を党派的な問題にすり替えた。民主党はそれを1982年の中間選挙で利用した。
 デイヴィッド・ストックマン行政管理予算局局長は大統領の社会保障に関する提案の主な賛同者であったが、議会での失敗は社会保障の増大を抑える試みの終焉を示していると結論付けた。さらにストックマンは退職してから「アメリカの福祉国家の中核が白熱した政治的対立の中で承認され確定された」と記している。しかし、社会保障庁の中でレーガンによって任命された構成員は、行政的措置を通じて社会保障を削減する努力を放棄しようとはしなかった。1980年の身体障害者に関する計画を見直すことを認めた法に基づいて、彼らは給付を受けるのに不適格と見なした人を名簿から削除する大規模な試みを行った。1981年から1984年の間に社会保障庁はほぼ50万人にもはや身体障害者のための給付金を受ける資格がないと通知した。さらにレーガンは予算編成権を効果的に行使し、多くの社会規制機関や社会福祉機関の予算を大幅に削減した。その結果、そうした省庁の活動は低下した。それは予算編成権が大統領の政策を実現する手段として有効であることを意味した。
 連邦裁判所や民主党議員は、社会保障庁による見直しが行政的な改革ではなく予算の節約を本当の目的としていると非難した。裁判所は20万人以上に対する社会保障庁の決定を覆し、身体障害者に関する法は社会保障庁に受給者の医療条件が給付金を打ち切る前よりも改善したかどうか証明することを求めていると解釈した。社会保障庁はこうした基準を適用することを拒み、法自体は医療条件が改善したかどうか証明するという基準を定めていないと反論した。社会保障庁は裁判で勝訴した特定の個人に対しては給付を再認定したが、一般的な方針を裁判所の解釈に従うように変えることは拒絶した。それに対して多くの判事は社会保障庁が法定侮辱罪に相当する恐れがあると警告した。この紛争の解決をめぐる2年間の試行錯誤の後、議会は1984年身体障害者給付金改革法を通過させた。同法により医療条件が改善したかどうか証明する基準が法制化された。こうした身体障害者の給付金をめぐる戦いは、議会や裁判所から権限を与えられなくても過去の福祉政策に対して挑戦するレーガン政権の熱意を示した。
 社会保障の将来に関する激しい議論の後、1983年、レーガンは年金制度の支払い能力を2050年を超えて確証する措置を認めた。その措置には社会保障税の段階的引き上げ、富裕な退職者の社会保障給付に対する課税、基金が枯渇すれば生計費を制約する方式、退職を65歳以上に延期するように促す措置、連邦職員の登録の義務化、2027年までに退職年齢の67歳への引き上げなどを含む。
 社会的規制の分野では、レーガン政権は、環境、消費者、そして公民権に関する規制を議会の立法ではなく行政的行動を通じて弱めようとした。レーガンの大統領令12291号と12498号は行政管理予算局に省庁の規制を包括的に見直すように命じている。またレーガンは、現行の規制に費用の面から分析を加えるためにブッシュ副大統領を長とする規制緩和対策委員会を設立した。同委員会の見解の中には、カーター政権末期の1980年12月29日から1981年1月23日の間に発令されたいわゆる「真夜中の規制」の見直しも含まれていた。1981年1月29日、レーガンはそうした規制に対して60日間の凍結を課した。

大統領政治

レーガンは、ヴェトナム戦争とウォーターゲート事件以来、一時的に差し止められていたホワイト・ハウスへの権限集中を再開することによって管理大統領制度の発展を促した。またレーガンは、保守派に彼らの目的を達成するためには大統領への権限集中が不可欠であることを納得させた。レーガンは、大統領は政策を形成し実行するためにあらゆる権限を行使すべきだというリベラル派がかつて持っていた確信に基づいて行動する勇気を持っていた。
 レーガンの政治的に立ち直る力は、自身の計画を国民的な議論の新しい基礎とする能力にある。レーガンは近代アメリカ史の中で最もイデオロギー的な大統領であった。イデオロギー的な目的は政党に対する関心よりも優先されることをレーガンは示した。確固としたイデオロギー的な目的を欠いていたニクソンの管理大統領制度は政府を思うままに動かそうとする戦略の域を出なかった。レーガンにとって、管理大統領制度はレーガンとその追随者がレーガン政権を超えて継続させたいと願った構想に対応できる制度であった。
 レーガンの人気と国内外で一定の成功を収めたのに拘わらず、レーガンは「右派のローズヴェルト」になることはできなかった。ローズヴェルトが達成でき、レーガンが達成できなかった目標は、イデオロギーによって緩やかに連帯した利益集団の幅広い連合によって政治的再編を持続させるという目標である。
レーガン政権の大統領政治の重要性は共和党による政治勢力の再編の見込みを減少させた。レーガンの共和党を強化したいという願いは真摯なものであり、多くの点で実現された。それにも拘わらず、保守主義の信条への献身によってレーガン政権は単独的な行政的行動に頼らざるを得なくなり、それは最終的に共和党に対する大統領の支援を損なった。
 ある程度、レーガンの個人的なリーダーシップの形態が、大統領の人気を共和党による政府全体の支配に転換することができない原因となったと批判した共和党の指導者は正しい。しかし、広い歴史的観点からすれば、レーガンによる大統領政治の強調は、ニュー・ディールと現代的大統領制度の確立に対する当然の反応である。ローズヴェルトのリーダーシップは民主党による完全な政治的再編の主要な要素であったが、それは議会ではなく大統領を人民の福祉の世話役にすることを目的としていた。ニュー・ディールや偉大なる社会は大統領の権限の拡大に比べれば党派的な計画では決してなかった。1980年のレーガンの当選によって頂点に達したリベラルな政策に対する挑戦が、党派的な政治の回復を遅らせるような保守的な管理大統領制度を生み出したことは驚くべきことではない。
 レーガンの政治的成功にも拘わらず、1980年代の現代的大統領制度は、ジョンソン政権の初期のように政治制度の支配権を握ることはできなかった。それどころか大統領は、影響力を行使する手段を発展させた現代的議会によって挑戦を受けた。裁判所、官僚制度、利益団体、そして報道と提携した議員は、企業やその他の民間組織に対するレーガン政権の規制緩和を修正することができた。
 イラン=コントラ事件が明るみに出ることで民主党が支配する議会は最後の2年間でレーガン政権をある程度、抑えることができた。大統領は、国家安全保障担当補佐官、中央情報局局長、ホワイト・ハウス首席補佐官などに議会が受け入れられる人物を任命することを余儀なくされた。政策の領域ではレーガンは保守的な構想を完全に進めることができなかった。レーガンは、例えばソ連との核軍備抑制交渉などリベラル派の構想と一致する場合のみ主導権を発揮することができると悟った。

貿易赤字

 レーガンはプラザ合意の形成を通じて貿易赤字の解消を目指した。レーガン政権は大規模な防衛費の増大と減税によって巨額の財政赤字を生んだ。さらに財政赤字を補填するための高金利政策は対外資本の流入を招き、ドル高が維持され、大幅な貿易赤字の一因となった。アメリカは世界最大の債権国から債務国に転落した。ジェームズ・ベイカー(James A. Baker)財務長官を中心に貿易赤字緩和のためにドル高是正が推進された。1985年9月22日、先進5ヶ国は、ニュー・ヨークのプラザ・ホテルで、各国がドル高是正のために協調して市場介入を行うこと、アメリカは財政赤字の削減と利子率の引き下げ、日本は内需拡大と市場開放を促進することなどで合意した。ベーカーは、ドル安によってアメリカの輸出が拡大し、貿易赤字が軽減されると考えていた。レーガンは、実業家や貿易関係者との会合で、プラザ合意によってドル高が解消され、アメリカ製品の市場拡大と競争力の向上が見込めると述べ、不公正貿易慣行の撤廃、外国市場の開放、二国間・地域的貿易自由協定の推進を約束した。さらにレーガンは、1984年通商関税法の301条に基づき、関税及び貿易に関する一般協定によらず、アメリカ単独で強硬な通商外交を推進する意向を示した。プラザ合意によってドル安が進行したが対日貿易の不均衡を是正するまでには至らなかった。
 議会は貿易赤字が改善されないことに苛立ちを深めスーパー301条を含む1988年包括等商法案を可決した。スーパー301条によって、アメリカ通商代表部は議会に提出する報告書に基づき、不公正貿易慣行に従事する交渉国と交渉優先事項を特定し、交渉が不首尾に終わった場合に経済制裁措置をとる権限が与えられた。アメリカは関税及び貿易に関する一般協定によらずに、独自に不公正貿易慣行に従事する国に対して調査を行い、制裁措置をとるという一国主義的な通商政策であった。1988年包括通商法はジョージ・H・Wブッシュ政権とクリントン政権にも引き継がれ、日本に対する市場開放を迫る手段となった。

移民政策

 レーガン政権期に初めて非合法移民を規制する包括的な法が制定された。1965年移民法の成立後、アジア諸国からの移民が増加する一方でヒスパニック系の密入国者が激増した。カーター政権は問題を検討するために移民・難民政策特別委員会を設置した。移民・難民政策特別委員会は、非合法移民の雇用主に対する罰則の制定、既に国内に居留している非合法移民の在留資格の合法化を勧告した。同委員会の勧告に従って新しい移民法案が議会に提出されたが、ヒスパニック系政治団体、リベラル派、南西部の農業関係者の反対で法案は成立しなかった。1985年、再び新しい移民法案が提出され、1986年に成立した。1986年移民法は、1982年1月1日以前に入国した非合法移民に恩赦を与えること、農業労働者に一時的在留資格を認めること、非合法移民の雇用者に罰則を与えることを規定した。しかし、1986年移民法は、非合法移民の問題を根本的に解決することはできなかった。

最高裁判事指名

 司法府に対するレーガンの影響力は、レーガン革命の力と限界を示す好例である。1960年代と1970年代にかけて、裁判所はリベラル派議員や利益団体に加わって、黒人、女権拡張論者、環境保護論者、そしてその他の民主党の有権者に有利なように法的規則を拡大しようとした。レーガン政権はそうした連合を崩そうと努めた。レーガンは、1950年代以降、最高裁は憲法の制定者が意図したよりも積極的に憲法の解釈を行っていると考えていた。学校での祈祷に反対したり、妊娠中絶の権利を認めたりする判決はレーガンにとって連邦政府の過剰な介入であった。レーガン政権は、連邦裁判所で保守的な判事をリベラル派の判事と置き換えようとしただけではなく、アメリカの法体系において保守的な思想を強めることで知的革命を起こそうとした。
 1981年、レーガンは大統領選挙で公約した通り、サンドラ・オコナー(Sandra Day O’Connor)を最高裁判事に指名した。アメリカ史上、最初の女性の最高裁判事である。しかし、オコナーの指名は議論を引き起こした。その当時、女性の裁判官はまだまだ少なかったこと、さらにその中でも保守的な立場を持つ者が少なかったので、レーガンの選択肢は極めて限られていた。そのためにレーガンは連邦裁判所以外から候補者を探さなければならなかった。白羽の矢が立ったのがアリゾナ州控訴裁判所のオコナー判事である。さらにオコナーの指名によってレーガンは保守派からもリベラル派からも批判を受けた。リベラル派は女性の指名を評価していたが、オコナーの姿勢、特に女性問題に関する姿勢は保守的過ぎるのではないかと心配していた。一方、保守派はオコナーは連邦裁判所判事としての経験と憲法の領域に関する知識が不足しており、妊娠中絶の権利を支持するのではないかと恐れていた。オコナーの指名は結局、承認されたが、オコナーは主要な社会的問題に対して、必ずしも保守的な政策に従わなかった。
 オコナーが最高裁判事に指名された一方で保守的な法学者が連邦控訴裁判所の判事に任命された。さらに1986年にウォレン・バーガー最高裁長官が退任を表明した時、レーガンはウィリアム・レンクイスト(William H. Rehnquist)判事を最高裁長官に昇任させ、アントニン・スカリア(Antonin Scalia)を空席に据えた。レンクイストとスカリアはレーガン政権が法に関する計画を立案するのに間接的な支援を行った。レーガン政権は、権力分立、連邦主義、そして競合する多数派の支配と少数派の権利の主張などに関する立場の礎としてレンクイストとスカリアの法的文書や見解を利用した。
 連邦裁判所を再構成しようとするレーガンの努力が頂点に達したのは1987年である。1987年にレーガンはロバート・ボーク(Robert H. Bork)を最高裁判事に指名した。ボークは著名な保守的な法学者であり、近年のリベラル派による裁判所の刷新を批判していた。ボークの任命により、妊娠中絶、積極的差別是正措置、そして死刑などに関して最高裁における均衡は保守派寄りになることが予測された。
 ボークの指名をめぐる論争は非常に激しかった。公開討論は、その党派性と辛辣さにおいて判事任命の歴史の中で匹敵するものがない程であった。リベラル派と保守派の利益団体によって行われた宣伝活動と報道によって公開討論はさらに過熱した。同様に上院の指名を承認する公聴会もテレビで全国放送され過熱した。司法委員会での5日間の答申の中でボークは、経歴を以って自らを証明する慣習を放棄した。その代わりにボークは25年間にわたる経歴の中で培った司法観を明らかにしようとした。
 ボークの指名は、歴史上、28人目、20世紀に限ると4人目の上院によって指名を否決された事例となった。司法委員会でのほぼ13時間にわたる証言などボーク程、強く叩かれた指名者はこれまでにいなかった。上院はボークの指名を58票対42票で否決した。この票差は最高裁の判事指名の歴史上、最大である。
 ボークの指名への抵抗はレーガン政権の社会的な計画に対する一般の抵抗を示していた。多くの有権者は減税や国防の強化を支持したが、公民権、妊娠中絶、そして公立学校での祈祷などに関するリベラルな政策から後退することで「伝統的な」アメリカの価値観を復活させようとするレーガン政権の計画は多くの議論を招いた。レーガンの社会的な計画に対する反対の広がりは、ボークの指名への反対で明らかであった。ボークの指名に反対した議員の中には13人の南部の民主党議員と6人の穏健派の共和党議員が含まれていた。
 またボークの指名の拒絶は、分断された政府の時代を特徴付ける判事任命をめぐる争いの高まりを示していた。1900年から1968年まで、ほぼ同じ党が上院の多数派と大統領職の両方を占めていたので大統領の指名はたいてい上院によって承認されるのが常であった。45回の中で承認が否決されたのは僅か3回のみであり、承認の割合は約93パーセントである。しかしながら、1968年以降、共和党の大統領と民主党が支配する議会の争いと司法府の政策に関する直接行動主義の拡大により、露骨なやり方で判事任命の過程が政治化した。ボークの任命をめぐる争いは、連邦裁判所の統制をめぐる民主党と共和党の最も鮮烈な戦いであった。
 レーガン政権期の判事指名は重大な遺産を残した。ボークの後に指名されたダグラス・ギンズバーグ(Douglas H. Ginsburg)連邦控訴裁判所判事は、大麻を学生の時だけではなく法学の教授になってからも吸っていたという事実が暴露されて指名の辞退を余儀なくされた。最終的にレーガンは上院に受け入れられやすいように穏健な保守派であるアンソニー・ケネディ(Anthony M. Kennedy)を判事に指名した。その直後にケネディを迎えた最高裁は、1976年のランヨン対マクラリー事件で示された公民権を支持する判決を再考した。それはレーガン政権が最高裁を少しではあるが保守派寄りにすることができたことを示している。
 さらにレーガンは78人の連邦控訴裁判所の判事と290人の連邦地方裁判所の判事を選んだ。その数は連邦判事のおよそ半数にあたる。こうした指名を行う中で、レーガンは、下級裁判所の判事職の大半が上院の猟官の対象となっているという伝統に挑戦した。判事指名に関する大統領の統制が強化されたことによって、連邦裁判所はかつてない程に保守的な判決を下すようになった。

議会の拒否権

 レーガン時代において大統領に関する最高裁の最も重要な判決は入国許可局対チャダ事件である。ニュー・ディール以来半世紀が過ぎて、連邦の活動の領域は劇的に拡大し、議会はますます複雑化する公共政策に関する問題を広義の言葉で条文を書き、自由裁量権を行政府に与えることで処理してきた。連邦の行政組織、もしくは大統領が議会の認めない方法で自由裁量権を行使することがないように、議会は多くの法に議会の拒否権に関する規定を盛り込んだ。そうした規定によって、議会は一定期間内で行政府の規定や行動を覆す権限が与えられた。議会の拒否権が最初に使われたのは1930年代である。拒否権の要件は、両院の合同決議から1つの委員会の反対まで様々であった。すべての場合において議会の拒否権は最終決定であった。大統領は、議会によって可決された通常の法案を拒否する権限を持つが、議会の拒否権を覆す権限は持っていなかった。1932年から1982年まで、議会の拒否権は250以上の法に盛り込まれた。その中には戦争権限決議も含まれている。
 1983年6月23日、最高裁は7票対2票で議会の拒否権を違憲と裁定した。入国国籍法によって議会は、司法長官による国外退去処分を無効化できる権限を持っていた。事件の発端は1974年まで遡る。ケニア人留学生であったジャグディーシュ・チャダ(Jagdish Rai Chadha)は入国査証の期限が切れてもアメリカに滞在していた。チャダは国外退去処分を認めたが、入国審査官は国外退去処分を差し止めた。しかし、入国国籍法に盛り込まれた議会の拒否権に基づいて下院は入国審査官による差し止めを拒否し、チャダの国外退去処分を決定した。チャダは告訴して、下院の措置の憲法上の法的根拠に挑戦した。
 多数派の意見として、バーガー最高裁長官は、議会の拒否権は権力分立の原理、特に「下院及び上院を通過したすべての法案は、法となるに先立ち、合衆国大統領に送付されることを要する。大統領はこれを可とすれば、これに署名する。否とすれば、これに反対理由を添えて、これを発議した議院に還付する」と規定する憲法第1条第7節に違反していると主張した。憲法は、それぞれの府が割り当てられた責任だけを担うように制限するために連邦政府に委任された権力を立法府、行政府、司法府の三府に分与することを求めている。
 入国許可局対チャダ事件の判決は、行政府にとってその当時に思われたよりもそれ程、決定的な勝利ではなかったことがわかった。数多くの法が議会の拒否権に関する規定を含み、その大半が上下両院の予算委員会の事前の承認を行政府が求めるように規定していた。様々な既成事実化した議会の拒否権は、立法府と行政府の間の非公式の合意に基づいて行使された。例えば1996年アメリカとの契約推進法には、規制省庁に上下両院に重要な規則を発表した場合に報告を求める規定が含まれていた。議会は重要な規則を監査するのに少なくとも60日間を与えられる。その間に議会は重要な規則を否決する両院合同決議を採択することができた。こうした報告を求める規定によって議会は行政府の行動を精査することができたが、実質的に議会の監視は1970年代中頃以降、かなり弱まった。例えば、アメリカとの契約推進法の下で決定された行政府の規則を議会が拒否しても、それを実行に移すためには大統領の署名を必要とした。さらに政策に関する活発な公聴会はあまり見られなくなった。

大統領の罷免権

 モリソン対オルソン事件でレーガン政権は独立検察官事務所に対する罷免権を主張した。独立検察官事務所はウォーターゲート事件後の1978年に設立された機関である。行政官の犯罪を忌憚なく調査するために独立検察官事務所は大統領と司法長官から独立している。議会は、独立検察官は3人の連邦判事からなる審議会によって選ばれ、正当な理由においてのみ大統領によって罷免されると定めた。レーガン政権は議会の制定法に挑戦し、告発は純粋に行政的であるから、大統領はいかなる理由においても自由に独立検察官を罷免することができると主張した。
 モリソン対オルソン事件は、行政的役割と準司法的役割、もしくは準立法的役割という最高裁が定めた区分の限界を示した。最高裁は、独立検察官が、行政官が典型的に行っている法の執行という意味で行政的役割を果たしていることを認めた。しかし、最高裁は、罷免に関する規定が、大統領が憲法で定められた義務、つまり法の執行に忠実に配慮する義務を果たすのを妨げているか否かが問題であると論じた。行政府に独立検察官を正当な理由で罷免することを認めることで、議会の制定法は大統領が憲法で定められた義務を果たすのを妨げていない。なぜなら各省庁の長官と比べて独立検察官の管轄権ははるかに狭いからである。したがって、議会の制定法における罷免に関する規定は合憲である。
 ボーシャー対サイナー事件もレーガン政権による罷免権をめぐる議会との争いであった。議会はグラム=ラッドマン=ホリングス法を制定した。同法により、議会と大統領は6年以内に財政赤字をなくす時程表に従うことになった。時程表を守るために必要な支出の削減を行う権限が会計検査院長に与えられた。憲法上の問題は、会計検査院長が両院合同決議によって非効率、怠慢、不正行為、犯罪行為などで罷免されるという点であった。またグラム=ラッドマン=ホリングス法によって会計検査院長に与えられた権限は三権分立の原理に違反しているのではないか。
 1986年7月7日、最高裁はグラム=ラッドマン=ホリングス法が違憲であるという判決を下した。しかし、最高裁は、行政権を執行する官吏を罷免する大統領の権限を妨げているので同法は違憲であるというレーガン政権の主張を受け入れなかった。議会は、本質的に行政的と見なされる権限を与えられた官吏を罷免する大統領の権限を正当な理由で以って制限する自由を有している。しかし、最高裁は、議会が会計検査院長に与えた権限は三権分立の原理に反しているので違憲であると判定した。罷免に関する規定から会計検査院長は議会に従属的であると見なされる。それにも拘わらず、会計検査院長は法の執行を求められている。それは行政府の権限の侵害であり、三権分立の原理に反する。レーガン政権は訴訟に勝利したが、独立行政委員会における大統領の罷免権を否定したハンフリーの遺言執行人事件の見解を覆すことはできず、大統領の罷免権に関する広範な解釈も認められなかった。

緊張緩和

 レーガンは冷戦の緊張緩和で主導権を発揮した。当初、レーガンはニクソン政権、フォード政権、そしてカーター政権で行われてきたソ連との緊張緩和政策を放棄した。ニクソン政権で第1次戦略兵器制限条約が締結され、最終的に批准されなかったものの、フォード政権で第2次戦略兵器制限条約が締結されたことで大陸間弾道ミサイルと潜水艦発射弾道ミサイルの保有数の上限が定められた。しかし、ソ連は戦略兵器制限条約の対象外の中距離核戦力の開発を促進し、核戦力を増大させた。北大西洋条約機構の加盟諸国は、米ソに中距離核戦力削減交渉の開始を要請する一方で、アメリカの新型中距離核戦力の配備を決定した。さらにソ連のアフガニスタン侵攻によって第2次戦略兵器制限条約の批准は棚上げされた。強固な反共主義者としてレーガンは、カーター政権と同様にソ連の人権侵害を非難し、1970年代のソ連の劇的な軍備拡張に対応した。レーガンは、新世代の核ミサイルの配備を承認し、新しい爆撃機の開発を加速させた。さらにレーガンはソ連の核戦力に対する抑止として中距離ミサイルを西ヨーロッパに配備した。それに対してソ連は中距離核戦力のみならず戦略兵器削減条約交渉の打ち切りを通告した。
 1983年3月8日、レーガンは演説で、核軍縮運動が軍拡を推進しているソ連を利するだけだと指摘し、「歴史的事実や悪の帝国の侵略的衝動を無視し、軍拡競争が大きな誤解のせいだと短絡的に判断し、正と過誤、善と悪の闘争から離脱して、どちら側も同様に悪いのだと決めつけている」と非難した。そして、信仰の力によって西側諸国は共産主義の挑戦に立ち向かうべきだとレーガンは主張した。1983年の大韓航空機撃墜事件を契機に米ソの関係は完全に冷え切った。アメリカから韓国に向かっていた民間航空機がコースを離れてソ連領空内に入ったために、ソ連戦闘機に撃墜されたという事件である。この1983年は米ソ関係が最悪になった年の1つである。冷戦に関するレーガンの姿勢は「我々は勝つ。彼らは負ける」という非常に明快なものであった。
 国際関係の研究者は米ソの二極関係が将来も長く続くと考えていたが、レーガンは異なった解釈を持っていた。もしアメリカが圧力を加えれば経済的に困窮したソ連は倒壊するというのがレーガンの見方であった。レーガンは、アメリカの軍事的優位を確立するために軍備拡大競争を加速させ、ソ連の経済が崩壊するところまで追い詰め、本土ミサイル防衛を確実なものとする戦略防衛構想で最後の一撃を与えた。戦略防衛構想は、増大しつつあるソ連のミサイルの脅威に対抗する防衛措置として提唱された。高まる反核運動に対応してレーガン政権は、戦略弾道ミサイルがアメリカや同盟国に着弾する前に破壊するシステムを構築することで、核兵器を実質的に無力にすることを目指した。戦略防衛構想は最終的に未完のままに終わったが、ソ連にアメリカに追い着く資金もコンピューター技術もないことを悟らせ、核軍拡を断念させ、核軍縮を推進させる1つの動機となった。
 しかし、レーガンはソ連の変化に敏感に対応し、緊張緩和に舵を切った。1981年11月から中距離核戦力削減交渉が行われることが決まり、その後、交渉が継続されていた。しかし、戦略防衛構想の発表や大韓航空機撃墜事件などで東西の緊張は高まり、交渉はなかなか進まなかった。緊張緩和の大きな契機となったのはソ連を取り巻く情勢の変化とソ連指導者の交代である。ソ連はアフガニスタン侵攻に失敗し、東ヨーロッパの衛星国の独立を求める声の高まりと国内経済の停滞に直面していた。1985年にソ連の書記局員の中でも最年少のミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail S.Gorbachev)が書記長に就任した。ゴルバチョフは低迷するソ連経済の実情を把握して、このままアメリカと軍拡競争を継続するのは不可能だと考え、アメリカとの宥和を図った。アメリカもソ連と同様に防衛費の増大によって財政が悪化していた。さらに反核運動が高まりを見せ、レーガンは強硬姿勢を改めて核軍縮交渉を再開する意思を示した。ゴルバチョフも国家の安全は軍事的な対立ではなく政治的な手段によって保障され得ると主張して軍縮への意欲を示した。さらにゴルバチョフは、米ソの攻撃的宇宙兵器を全面禁止し、相手国の領土に到達し得る核兵器の5割を削減すること、欧州の中距離核戦力の相互削減に関して迅速な合意を目指すこと、イギリスとフランスの核について両国と直接交渉することを提唱した。
 こうした両首脳の歩み寄りの結果、1985年11月にジュネーヴでの米ソ首脳会談を皮切りに米ソの緊張緩和が進んだ。6年振りに行われた米ソ首脳会談では、核軍縮の実質的合意には至らなかったものの、核兵器の5割削減を目指して早期に交渉を開始することが宣言された。レーガンは、強大な軍備によって優位な立場を保つことが重要であると考え、戦略防衛構想の研究開発の継続を求めた。ゴルバチョフは戦略防衛構想の研究開発の継続に一貫して反対した。戦略防衛構想をめぐって両国の立場の違いは埋まらなかったが、1986年になると米ソ両国の核軍縮提案はさらに進展した。ゴルバチョフは、20世紀末までの核廃絶を目指す具体的な計画を提示した。レーガンも3年間で中距離核戦力を全廃する計画を提示した。
 1986年10月、レイキャビクで米ソ首脳会談が再び行われた。ゴルバチョフは、欧州の中距離核戦力全廃、その他の地域の中距離核戦力の削減、戦略核兵器の5割削減、迎撃ミサイル制限条約の10年間遵守、核実験の包括的禁止に関する交渉開始を提案した。しかし、再び戦略防衛構想をめぐって米ソの意見は折り合わず、欧州の中距離核戦力全廃は実現しなかった。1987年2月28日、ゴルバチョフは戦略防衛構想をめぐる対立を棚上げし、中距離核戦力全廃交渉を再開する意思があることを示した。その一方、レーガンは6月12日にブランデンブルグ門の前で行った歴史的な演説でさらなる緊張緩和をゴルバチョフに直接訴えかけた。

「1950年代にフルシチョフは『ソ連はアメリカを葬り去る』と予言した。しかし、今日、西側陣営では、人類史上前例のない程の繁栄と幸福を享受している自由世界を我々は見ている。共産主義の世界では、失敗、技術的後進性、低下する健康水準、さらには最も基本的な種類のものさえ、それは食糧が少な過ぎるということだが、欠乏しているのを見ている。今日でさえ、ソ連は自分自身を未だに養うことができない。この40年間の後に、全世界は1つの偉大で避けることができない結論にたどり着いた。それは自由こそ繁栄をもたらすという結論である。自由は国家間の古い憎しみを礼譲と平和に置き換える。自由こそ勝利者なのである。そして今、ソ連自身は限られたやり方で自由の重要性を理解するようになってきたようである。我々は、改革と開放という新しい政策についてモスクワからたくさんのことを聞いている。政治犯は釈放された。特定の外国のニュース放送はもはや妨害されなくなった。営利企業は国家統制から大いに解放され運営することが許されるようになった。これらはソ連の根本的な変化の始まりなのか。それとも、西側諸国に誤った希望を持たせるための、または変革することなくソ連の仕組みを強化しようとするための形ばかりの態度なのか。我々は変革と開放を歓迎する。我々は自由と安全が両立すると信じ、人類の自由の昂進こそ世界平和の大義を強化すると信じている。ソ連が自由主義と平和主義を間違えようのないものにし劇的に前進させようとしている徴候がある。ゴルバチョフ書記長よ、あなたが平和を求めるのであれば、ソ連と東ヨーロッパの繁栄を望むのであれば、自由化を追求するのであれば、この門の所まで来て下さい。ゴルバチョフ氏よ、この門を開いて下さい。ゴルバチョフ氏よ、この壁を突き崩して下さい」

 軍備削減に関する主要な障害は、レーガン政権の戦略防衛構想の他にソ連軍部が兵器削減条約の遵守を確認するための立ち入り調査に消極的であったことであった。最終的にゴルバチョフは相互の立ち入り検査に全面的に合意し、戦略兵器削減条約締結の道が開かれた。7月21日、ゴルバチョフは欧州のみならずすべての地域で準中距離核ミサイルと中距離核ミサイルを全廃することを提案した。1987年12月、中距離核戦力全廃条約がレーガンと訪米したゴルバチョフによって調印された。中距離核戦力全廃条約によりヨーロッパからアメリカとソ連の中距離核ミサイルが撤収されることになった。同条約は核軍備が拡大から縮小へと転換する画期的な出来事であるだけではなく、冷戦終結の前提となった東西緊張緩和を象徴する出来事であった。またアメリカとソ連は戦略兵器削減条約の締結交渉を開始した。さらにゴルバチョフは通常戦力の削減も発表した。レーガンは東西対立における平和条約の調印者として高い評価を受けた。一時、イラン=コントラ事件で低迷したレーガンの支持率は1988年を通じて徐々に回復し、最終的には63パーセントに達した。

中東政策

 1987年1月、イラン・イラク戦争の中、レーガン政権は、ペルシア湾の危険水域を通過する時に、アメリカの国旗を掲げ護衛を求めるクウェートの要請を受け入れた。1987年5月、イラク軍は誤ってアメリカのフリゲート艦を攻撃し、37人の乗組員を殺害した。10月、今度はアメリカの国旗を掲げたタンカーにイラン軍がミサイルを発射し、18人の乗組員を負傷させた。3日後、アメリカは報復としてイランの2つの石油プラントを破壊した。アメリカ軍とイラン軍の直接交戦は1988年4月に起きた。イランの機雷によってアメリカのフリゲート艦が被害を受けた報復に、アメリカ軍はさらに2つの石油プラントを攻撃し、イラン軍の艦船を撃沈した。4日後、アメリカはすべての中立国の船舶を保護することを宣言した。7月、アメリカの戦艦が戦闘機と誤認してイランの旅客機を撃墜した。乗っていた290人の民間人はすべて死亡した。

結語

 レーガンはワシントン政界を完全に変えることはできなかった。その代わりにレーガンは連邦政府における共和党の足掛かりを強化し、共和党による大統領職の掌握を固め、ワシントン政界において保守派に影響力のある地位に就く多くの機会を与えた。それに付随して、レーガン政権下で行政府と立法府の争いは激化した。
 1968年に始まった分断された政府の時代は、公共政策に関する大統領と議会の間の相違を特徴とするだけではなく、行政府と立法府がお互いに攻撃し合うという時代であった。行政府の単独的な権限を高め、大統領の行動に対する規制を出し抜こうとするレーガン政権の試みに、民主党議員は行政府に議会の委員会による監視を課したり、大統領権限に法的制限を課したりすることで対抗した。
 党派間の争いの主な場は一連の調査委員会であり、民主党と共和党がお互いの名誉を傷付けあった。例えば、1970年代初期から1980年代中頃まで連邦検事が、連邦議員、連邦判事、高位の行政官を含む連邦、州、その他の地方の公職を告発した回数はそれ以前に比べて10倍に達した。公職に対する法的な審査が厳しくなったのはウォーターゲート事件に1つの原因がある。独立検察官に対する「土曜日の夜の虐殺」のような事件が再び起こらないようにするために、議会は、行政官の犯罪的行為の申し立てを調査する独立検察官を任命する1978年政府倫理法を制定した。しかし、分断された政府によって同法は党派的な目的のために利用された。1980年代、民主党議員は敵対する行政官に対して犯罪調査を行うように求めることができる立場にいた。1993年に民主党のクリントンが政権の座に着くと、今度は共和党議員が同じ立場に立った。政治的不協和はたやすく犯罪的な非難に変わる。さらに特別検察官の下で行われた調査は、憲法上の違いや政策上の違いから注意を逸らし、議会、報道、そして人民の注意をスキャンダルばかりに向けさせる傾向があった。したがって、アメリカの政争に伴う危険に選挙での敗北の他に名誉の失墜と収監が加わった。
歴代アメリカ合衆国大統領研究