ビル・クリントン 第42代アメリカ合衆国大統領

ウィリアム・クリントン

William Jefferson Clinton
(William Jefferson Blythe V)
生没年(1946年8月19日〜)
在任期間(1993年1月20日〜2001年1月20日)
 
ウィリアム・クリントン大統領の概要
戦後生まれ初の大統領
 ウィリアム・クリントンはアーカンソー州ホープで生まれた。父ウィリアム・ブライズ2世(1917.2.21-1946.5.17)と母ヴァージニア(1923.6.6-1994.1.6)の一人息子である。父ウィリアムはクリントンが生まれる前に亡くなった。クリントンは母の再婚相手の姓である。継父は車の部品販売のセールスマンで暴力がひどかったために母ヴァージニアは離婚している。ジョージタウン大学を卒業後、オックスフォード大学で修士号、さらにイェール大学で法学博士号を取得した。

カムバック・キッド
 アーカンソー大学で教鞭を執った後、アーカンソー州検事総長を経て州知事に就任した。一度、州知事選挙で落選したものの、再選に成功し、「カムバック・キッド」と呼ばれた。州知事として9年間在職し、1992年の大統領選挙で民主党候補として現職ブッシュ大統領を破って当選した。

中道路線
 クリントンは「中産階級の権利章典」を打ち出して貧富の格差の是正をはかり、失敗に終わったものの国民皆保険の導入を試みた。経済状況の改善の下、財政赤字を黒字に転換させた。外交では、第2次戦略核核兵器削減条約の締結、中東和平の仲介、ベトナムとの国交正常化、ボスニアの和平合意などを達成した。モニカ・ルインスキーをめぐるスキャンダルに見舞われ、連邦下院から弾劾を受けたが、上院では無罪になった。


ウィリアム・クリントン政権の概要
1992年の大統領選挙

 1992年の大統領選挙で勝利したクリントンは16年間振りに選ばれた民主党の大統領になった。1996年に再選されたクリントンは、フランクリン・ローズヴェルト以来、再選を果たした初めての民主党の大統領になった。1996年の選挙でクリントンは、両院で共和党に多数派を明け渡しながら大統領に当選した最初の民主党の大統領になった。クリントンは1969年会計年度以来、連邦予算を均衡させた最初の大統領になった。
 クリントンはウィルソン以来、大統領選挙で2回とも一般投票の過半数を獲得しないで選ばれた最初の大統領である。また2回とも400人より少ない選挙人で当選した20世紀で唯一の大統領である。世論調査の歴史の中でクリントンは最初の100日間の終わりで最も低い支持率を記録した。
 ルインスキー問題が発覚した1998年1月から上院がクリントンの弾劾に関して無罪を宣告した1999年2月まで、クリントンは未知の政治領域を模索した。クリントンは報道とルインスキー問題に関する調査に悩まされ、ルインスキー問題を裁判所から隠そうと試みた。1998年12月、歴史上、初めて下院によって弾劾された選挙で選ばれた大統領になった。アンドリュー・ジョンソンも弾劾を受けたが、選挙で選ばれて大統領になったのではなく、リンカンの暗殺によって副大統領から昇格して大統領になった。しかし、1998年のクリントンの支持率は、6年目の数字としてはどの大統領の支持率よりも高かった。11月の中間選挙で1822年以来、初めて2期目を務める大統領の政党が議席数を伸ばした。
 クリントンの運命が乱高下したのは、クリントンの指導者としての資質とその時代の政治的環境による。クリントンの政治的経歴を表す言葉は移ろいやすさである。アーカンソー州知事として、そして大統領としてクリントンは1年目にまったく成功を収めることができなかった。またクリントンの運命の変転は、分断された政府、議会や活動家の中における強い党派的分裂、そして政治過程に対する不信の時代の中のアメリカ政治の不安定さを反映していた。二大政党のイデオロギー的な抱負に多くのアメリカ人が抵抗を示す中でクリントンの優れた政治手腕は効果を発揮した。
 1992年の選挙は現代的大統領制度にとって楽観的な兆しと悲観的な兆しの両方を含んでいた。民主党は効果的に選挙運動を展開し、クリントンも政党の責任を巧みに主張したが、選挙の結果は、たとえアメリカ国民が政府が機能するやり方に不満を抱く点では一致していても、アメリカ国民を分断する根本的な衝突は続いていることを示していた。1992年の大統領選挙の最大の特徴はブッシュの政治的運命の凋落である。1991年の世論調査でブッシュは高い支持率を示したので、ブッシュ再選と保守派の共和党の勝利は不可避であるように思われた。しかしながらブッシュの湾岸戦争後の高い人気は、ブッシュの国内政策に対する姿勢に対するアメリカ人の不安を覆い隠していた。さらにブッシュの外交政策における成功は、冷戦終結後に前面に押し出された妊娠中絶や移民といった文化的、社会的問題に関する共和党内の緊張を一時的に抑えただけであった。
 ブッシュの経験は現代的大統領制度の孤立を思い起こさせるものである。大統領制度は政党の制約から逃れるようになり、その代わりに移ろいやすい政治的状況に従属するようになっていた。20世紀の大統領制度の進化は、アメリカ国民に大統領は人民の擁護者であり、人民の意思の体現者であると確信させた。しかし、ブッシュは人民を主導するリーダーシップに欠けていた。
 クリントンが43パーセントの一般投票を獲得した一方で、ブッシュは37.4パーセントの一般投票しか獲得することができなかった。その数字は、タフトが3位に終わった1912年の大統領選挙以来、大統領選挙に出馬した現職大統領の中では最低である。タフトが第三政党を結成して出馬したセオドア・ローズヴェルトに再選を妨害されたように、ブッシュもテキサス州の億万長者のロス・ペロー(H. Ross Perot)に再選を妨害された。ペローが獲得した19パーセントにのぼる一般投票は、ローズヴェルトの革新党が登場して以来、二大政党制度に対する最大の挑戦であった。
 ローズヴェルトとペローの比較は興味深い。ローズヴェルトの立候補は、積極的で活動的な連邦政府の出現の前兆となっただけではなく、大統領選挙が党組織よりも候補者とその個人的助言者によって行われる前兆となった。1912年の大統領選挙でローズヴェルトとウィルソンは政党や議会ではなく大統領が政府の代表であるという新しい政治的リーダーシップの概念を提唱した。そうした概念の受容は、後にフランクリン・ローズヴェルトのリーダーシップとマス・メディアの出現によって促進された政党の集団的責任を大統領の世論を主導するリーダーシップに従属させる新しい原動力をもたらした。レーガンは保守的な大統領でさえも政策への支持を集めるために世論を喚起することが不可欠であることを認識させた。
 ペローの挑戦は、大統領政治が、いかに政党の制約から免れることができるか示した。1980年代のマス・メディアの構造の変化が1992年のペローによる政党政治の回避を容易にした。ペローはいかなる公職にも就いたことがなく、選挙運動は「インフォマーシャル」呼ばれる30分間のコマーシャルやトーク・ショーへの出演で占められ、有権者に直接訴えかける新しい基準を打ち立てた。その一方でペローは第三政党を結成しようという要望を却下し、政党による候補指名を受けなかった。その代わりにペローはラリー・キング・ライヴを通じて有権者を動員しようとした。ペローはそうした番組で2時間にわたって視聴者からの質問に答えた。
 ペローの登場は、世論と大統領職を繋げる新しい手段を示した。ペローは統治手法として「電子庁舎」の組織化を提唱した。政府の審議を補うものとして、もしくは代わるものとして世論が用いられるという考えである。一時期、ペローは世論調査でブッシュとクリントンを上回る支持を集めていた。ペローの大統領のリーダーシップに関する考え方は、アメリカの政治において重要でありながらも混乱させる要素をもたらしたように見えた。ペローは新しい秩序を示した。その秩序において、議会、裁判所、そしてマス・メディアは正当性を失い、大統領は世論によってのみ抑制され、国家の問題を解決するように期待される。
 最終的にアメリカ国民は、1970年代から1980年代の大統領と議会の間の争いの悪弊を正すことが期待される新しい形態の民主党の政治を代表するクリントンに望みを託した。クリントンは、アメリカを20年にわたって疲弊させてきた右派と左派の衝突を「超越している」と主張した。1980年代中頃、クリントンは民主党内の穏健派の一派の指導者であり、大統領選挙に出馬する際に中心的なテーマとなった多くの考えを醸成した。選挙運動の間にしばしばクリントンが主張したように、そうした考えは「中産階級の価値を称揚し、公的信頼を回復し、新しい共同体の感覚を創造し、もう1度アメリカを動かす」という新しい政治哲学を代表していた。クリントンが標榜する「新しい社会契約」は、共同体と責任の名の下に、ニュー・ディールによって解放された経済的権利の要求を抑えることであった。

「今、私はすべての答えを持っていないが、古くからのやり方がうまくいかないことを知っている。トリクルダウン経済は確かに失敗した。そして、民間でも公共でも巨大な官僚制は失敗した。我々が新しい政府の手法、すなわち、給付を少なくする一方で能力の促進を多く与える政府を必要とする。公立学校に入学できるように若い人々により多くの選択肢を与える。そして高齢者や身体障害者に長期間の医療保険とより多くの選択肢を与える。より無駄がないが野心的ではない政府、官僚制ではなく、機会を拡大する政府、自由な企業の活気に満ちた重要な制度における成長から雇用が生じることを理解する政府である」

 社会保障、医療保険、医療扶助、児童手当のような給付政策を通じて経済的福祉を保障するリベラル派の約束は行き過ぎであるというのがクリントンの主張の要点である。新しい社会契約の目的は、国と個人の相互の義務感なく個人の権利と政府の給付政策を賞賛するアメリカ人の傾向を正すことにある。クリントンは、平和部隊に代表されるような新しい国家への献身を呼びかけるケネディの政治哲学に共鳴していた。
 クリントンの新しい民主党のメッセージはうまく作用しているように見えた。確かにクリントンが獲得した一般投票は全国民による信任とは言い難い。実際、それは敗北した民主党の大統領候補が以前の3回の大統領選挙で獲得した一般投票と同程度である。しかし、クリントンの支持層は幅広く、ブッシュとの一般投票の差は顕著であった。クリントンは32州の370人の選挙人を獲得した。獲得した州の中には1964年以来、民主党が獲得できなかった州も含まれていた。さらに民主党は上下両院で多数派を獲得した。

政治的低迷

 クリントンの最初の100日間で、10人のうち7人が悪い方向に向かっていると思っている国の行く末をクリントンが変えてくれるという人民の期待は小さくなった。フランクリン・ローズヴェルトの伝統に倣って、民主党の強力な大統領になろうとしたクリントンであったが、カーターが悩まされたのと同種の嘲りの対象になっていることに気付いた。多くの人々は、カーターと同じく南部の小さな州の知事しか務めたことがないクリントンが大統領職をうまく務めることができるか疑問に思っていた。
 ニクソン以来、最も敵対的な記者団がクリントンの弱点を増幅させた。ケーブル・テレビの登場とトーク・ショーの普及によって大統領は直接人民に訴えかけることができるようになり、ワシントンの記者団は疎外感を抱くようになった。実際、クリントンは就任して最初の3ヶ月間で1回しか記者会見を開いていない。影響力の低下に不満を抱いた記者団はクリントン政権の失策にたやすく飛びつくようになった。ロス・アンジェルスの空港に着陸した大統領専用機での200ドルの散髪から司法長官と顧問弁護士の人選に対する批判まで報道はホワイト・ハウスの失策を事細かに報じた。
 州知事から大統領になったことでクリントンはホワイト・ハウスの職員を揃えるうえで困難を抱えた。アーカンソー時代からの親密な関係者であるトマス・マクラーティ(Thomas F. McLarty)が首席補佐官に据えられたが、マクラーティはワシントン政界の複雑さと厳しさに十分対応できる準備が整っていなかった。一方、クリントンは、ロイド・ベンツェン(Lloyd Bentsen)上院議員を財務長官に、レス・アスピン(Les Aspin)下院議員を国防長官に、そしてブルース・バビット(Bruce Babbitt)元アリゾナ州知事を内務長官に任命するなど影響力のある人物を閣僚に迎えた。しかし、クリントンの人選は、民主党員がワシントンでの行政経験に乏しいために制限された。1981年にホワイト・ハウスから締め出されて以来、民主党は経験に富んだ行政官を育てる機会を持つことができなかった。アスピンとベンツェンさえ弁護士としての業績を持っていたが、長官を務める準備は完全にできていなかった。しかし、さらに大きな問題はクリントンの統治形態であった。クリントンは政策決定の中心をホワイト・ハウスの職員に置いた。
 ホワイト・ハウスは問題の一部でしかなかった。クリントンの政治的な困難の大半はクリントン自身が原因であった。大統領はすべての人々を喜ばせようとしているようであり、それはすなわちリーダーシップの欠如であった。またクリントンのそうした姿勢は、競合する利益団体の一群から形成される民主党によって助長された。選挙運動の間、クリントンはそうした利益団体に挑戦し、さらなる給付政策を求める彼らの要望を無視することを約束していた。しかし、政府支出を抑制し、福祉国家を作り直すというクリントンの約束は最初の100日間の数多くの伝統的にリベラルな行動で不明確になった。就任するや否や、クリントンは長い間課されてきた軍隊における同性愛の禁止を撤廃する大統領令を出す意向を示した。こうした政策をすぐに実行することで経済問題に焦点を当てられるようになるとクリントンは信じていた。
 しかしながら、そうした意見の分かれる社会的問題を大統領令のみで解決できると期待することは非現実的であった。管理大統領制度の発展は、大統領に自らの決断のみで国内政策を推進する権限を与えた。しかし、レーガンとブッシュが認識していたように、こうした権限の行使は議会、利益団体、そして官僚制度の強い反発を引き起こした。コリン・パウエル(Colin Powell)統合参謀本部長や上院軍事委員会の長であるサム・ナン(Sam Nunn)の強硬な反対によって、クリントンは妥協的解決案を探すために同性愛者に関する大統領令の発令を6ヶ月間延期せざるを得なくなった。このことは選挙の際に財政的、かつ組織的な支援を行った同性愛者の団体を激怒させた。クリントンにとって最も有害であったのは、こうした問題が不安定な経済と中流階級の政治的疎外を是正しようとする革新的な政治を再生することができないクリントンの評価に繋がったことである。
 新しい連邦予算を経済に投資するというクリントンの計画は財政赤字によって挫折した。ブッシュ政権から3,500億ドルの財政赤字を引き継いだクリントン政権は、中間層に対する減税の約束を撤回した。その代わりにクリントンは増税とレーガン政権とブッシュ政権で追求された歳出の優先事項を転向させることによって5年間で財政赤字から5,000億ドルを減らすことを提案した。最初の予算で、クリントンは防衛省の予算を民主党の一連の伝統的な社会計画に移すことを提案した。クリントンは、子供を持った低収入の家族に対する税控除の大規模な拡大を求めた。その実現には270億ドルを要した。他にも教育福祉事業であるヘッド・スタート計画に138億ドル、女性、幼児、子供に対する補足食料計画に36億ドルが充てられた。
 そうしたクリントンの計画は赤字を減らすことを約束したものであったが、大きな政府を標榜する民主党議員と際立った違いはなく、共和党議員は大統領に激しい非難を向けた。同時に共和党はクリントンの経済計画、特に財政赤字の削減が原因となる経済不況に対処するために提案した160億ドルの短期的な景気刺激策に反対した。上院で共和党の指導者は党派的な反対の道具として議事妨害を利用した。共和党の上院議員は法を制定するには人数が足りなかったが、クリントンの景気刺激策やその他の施策を妨害するのには十分な人数であった。
 共和党の戦略は実質的に前例のないものであった。歴史的に議事妨害は上院で独自路線をとる者や地域的な少数派が議会指導者に対抗するために使われてきた。共和党の指導者が大統領を陥れるために画策した議事妨害は、レーガン政権とブッシュ政権を悩ませた党派的な争いの証であり、分断された政府によって生み出された大統領と議会の衝突を超えて国を動かすことに政権初期にクリントンが失敗した証である。民主党の穏健派は、もし大統領が新しい民主党員として明確に統治を行えば共和党の妨害工作に対抗できると主張した。クリントンが支持した増税とリベラルな社会政策によって共和党員はクリントンを羊の皮を被った狼と称した。共和党の考えではクリントンは実は伝統的なリベラル派であり、改革の約束は大統領選挙の終わりとともに消えてしまった。
 伝統的なリベラルの大義を黙認するクリントンの姿勢はある意味で理解できる。それは、大統領と党組織の近代的な組織的分立に対応する当然の帰結であった。クリントンが代表する民主党の中道派は少数者であった。民主党の活動家と議員の大多数は機会よりも給付を、自己責任よりも規制を好んでいた。クリントンの新しい民主党の原理と民主党の従来の原理を調和させることは難しかった。党の中核をなす寄付者や有権者はクリントンよりもリベラルであり、そのため大統領が道義的リーダーシップを発揮するのが難しくなった。伝統的なリベラル派の不人気と候補者を中心とした大統領選挙によって、クリントンは指名を獲得して、本選で勝利を収めた。マス・メディアを媒介とした党員集会や予備選挙によって、1976年の大統領選挙でカーターが示したのと同じく、政府の外部者というイメージをクリントンは築くことができた。しかし、そうした状況の変化は、クリントンが大統領になってから民主党を変える手段を何ももたらさなかった。選挙の間、提唱した中道的な構想を実現するためにはクリントンは民主党の中核をなす人々と対決しなければならなかった。
 クリントン政権の初期は政治的低迷の時期であったが、クリントンは重要な勝利を収めた。1993年6月、議会はクリントンの5,000億ドルの財政赤字削減案を修正した案を辛うじて可決した。1993年8月、クリントンは共和党議員の支持をまったく受けることなく予算計画を両院協議会で通すことができた。下院は218票対216票で両院協議会の報告を採択した。一方、上院では50票対50票で票数が均衡したが、アル・ゴア(Albert Arnold "Al" Gore, Jr.)副大統領の決定票により報告は採択された。予算計画への支持を得るためにクリントンは、民主党の穏健派に歳出削減の一括案をまとめることを約束した。こうした約束をすることでクリントンは予算計画をめぐる争いに辛うじて勝利を収めた。

行政制度改革

 クリントン政権は政府再編計画に乗り出した。政府再編計画の発案者はジャーナリストのデイヴィッド・オズボーン(David Osborne)とヴィセーリア市の元市支配人のテッド・ガブラー(Ted Gabler)である。彼らは、共産主義の崩壊と自由世界の伝統的な官僚制による社会的、経済的問題の解決の失敗により、新しい水準の中央政府が必要とされると論じた。政府再編計画は、ゴアが長を務める国家業績評価の中核となった。政府再編計画により、25万2,000に及ぶ連邦の職が削減され、連邦政府の物品調達に関する法が徹底的に見直され、政府の情報伝達制度が更新され、助成金が削減され、官僚的形式主義が排除された。その結果、1,080億ドルが節減されると見込まれた。批評家は政府再編計画を空虚な言葉だけに過ぎないと非難し、議会はゴアの最も重要な提言を法制化しなかった。しかし、国家業績評価は批評家が予期したよりも多くの事柄を達成した。国家業績評価は職員を活気付け、市民を引き付け、マス・メディアの関心を政府の管理に向けさせた。

北アメリカ自由貿易協定

 1993年11月、クリントンは北アメリカ自由貿易協定の批准をめぐる争いに勝利した。北アメリカ自由貿易協定に関して民主党の支持を全面的に頼ることはできないとクリントンは分かっていた。北アメリカ自由貿易協定に対する民主党議員の支持が弱かったのでクリントンは議会で民主党議員だけではなく共和党議員の支持も求めなければならなかった。アメリカやカナダの製造業が人件費の安いメキシコに拠点を移し、産業の空洞化を助長し、失業問題が悪化するという懸念を抱く議員が多かった。また北アメリカ自由貿易協定には人的交流規制の撤廃が含まれていたためにメキシコに隣接する州は非合法移民が増加するのではないかという不安を抱いていた。クリントンは北アメリカ自由貿易協定の批准を実現するために議会の頭越しにアメリカ国民に直接訴えかける運動を開始した。ゴア副大統領がラリー・キング・ライヴで北アメリカ自由貿易協定に反対するペローと議論した時に転換点は訪れた。ゴアの自由市場に対する力強く楽観的な擁護は多くの視聴者に受け入れられ、上下両院の議員が協定を受け入れるように説得するのに十分な支持を集めることができた。
 その効果について賛否両論があるものの、北アメリカ自由貿易協定はクリントンが多くの恩恵を被った数少ない外交政策の1つである。多国間で自由貿易協定を締結したことによって二国間貿易交渉で生じる軋轢を回避することができた。冷戦後の世界で、クリントンの主要な目的は、アメリカの戦略的、経済的利益を促進するためにグローバル社会で自由市場を拡大することであった。大統領に就任した時、クリントンは国際社会には注意を向けるべき問題が山積していると気付いた。クリントンはサダム・フセインからの挑戦に直面した。フセインはクウェートを訪問したブッシュ前大統領の暗殺を企てた。その報復としてクリントンは、1993年6月、イラクの諜報機関を空爆するように命じた。フセインの軍事力による威嚇はクリントン政権期中、継続して行われた。

包括的核実験禁止条約

 クリントンは北アメリカ自由貿易協定で勝利を収めたが包括的核実験禁止条約の批准に失敗した。包括的核実験禁止条約は、部分的核実験禁止条約より進んで、地下核実験を含むすべての核実験を禁止することを目的とし、1994年1月に交渉が始まった。また議会は1992年、エネルギーと水資源歳入法に核実験を一時停止する条項を盛り込んだ。インドとパキスタンで核実験が行われた後、一時停止は解除されたが、クリントンは一時停止を継続した。クリントンは包括的核実験禁止条約の交渉に支持を表明した。国内の反対を抑えるためにアメリカの条件として、核実験を行わなくても貯蔵された核兵器の維持が可能となる措置を提案した。1997年9月22日、クリントンは条約を上院に提出した。しかし、上院は弾道弾迎撃ミサイル制限条約と京都議定書の審議を優先し、包括的核実験禁止条約の審議を拒否した。審議は1999年9月にようやく始まったが、最終的に批准が拒否された。このような上院による重要な条約の批准拒否は1920年のヴェルサイユ条約の拒否以来である。

ソマリア政策

 クリントン政権はソマリアをめぐる外交政策で最も困難を極めた。1980年代からソマリアの内戦は始まった。エチオピアの支援を受けた北部と南部の部族連合が勢力を増し、北部はソマリランドとして独立を宣言した。先に辞任した大統領に代わって暫定大統領が立てられたが、それに反対する勢力が蜂起して内戦状態に陥った。国際連合はソマリアに介入を行い、1992年4月、国連平和維持活動として第1次国連ソマリア活動を開始した。国連ソマリア活動が内戦を終結させることができなかったために、さらにアメリカ軍を中心とする希望回復作戦が1992年12月に開始された。1993年2月4日、議会はアメリカ軍の活動延長を認め、さらにクリントンもアメリカ軍の増派を決定した。クリントンは、虐殺や人道的危機に対して、国連決議が採択される前でも国際社会が行動する必要性を主張した。これはクリントン・ドクトリンと呼ばれる。
 希望回復作戦は武力行使が認められた第2次国連ソマリア活動に変更された。アメリカ軍は、軍事指導者のモハメッド・アイディード(Mohamed Farrah Aidid)の身柄拘束を主な目的とした国連安保理決議に基づいて作戦を行ったが、多くのアメリカ軍兵士が市街戦の中で捕らわれたり、殺害されたりした。ソマリアからの撤退を求める議会の強い圧力にも拘わらず、クリントンは増援部隊を派遣した。しかし、最終的に議会が1994年2月1日までに作戦の予算を打ち切ると宣告したために、クリントン政権は作戦目的をアメリカ軍兵士の防衛と救援物資の補給線の確保に制限することに同意した。ソマリア問題は国際問題に関するクリントンの決意の欠如を示しているように見えた。

中東政策

 中東政策においてもクリントンは困難に直面した。イスラエルのイツハク・ラビン(Yitzhak Rabin)首相とパレスティナの指導者のヤーセル・アラファト(Yasser Arafat)の間でパレスティナ自治政府の樹立を認めるオスロ合意の調印式が1993年9月にホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで行われた。オスロ合意によってイスラエルとパレスティナの敵対関係が公式に終了した。オスロ合意では、5年を暫定期間としてパレスティナの自治を認め、返還条件については3年目以降に開始される交渉で決定するという約束が交わされた。その後、他にも幾つかの合意が成立した。1994年5月、ガザ・イェリコ先行自治協定によってイスラエル軍の一部撤退が行われた。1995年9月、西岸地区とガザに関する暫定合意によって、ヘブロンを除くヨルダン川西岸のアラブ人居住区全体からのイスラエル軍の撤退、1年以内の最終地位に関する交渉の開始、暫定自治政府の選挙実施が定められた。
 しかし、1995年11月にラビンが過激派に暗殺された後に首相に就任したベンヤミン・ネタニエフ(Benjamin Netanyahu)は、占領地域をパレスティナに移管するのを差し止め、パレスティナは反イスラエルのテロリストを逮捕するのに十分に尽力していないと主張した。1998年、クリントンは、ネタニエフとアラファトを説得してワイ・リヴァー合意の締結にこぎつけた。ワイ・リヴァー合意は、イスラエルがパレスティナから軍を撤退させる代わりにパレスティナがテロリストを逮捕することを約束し、パレスティナ憲章からイスラエルの破壊を求める条項を削除することを約した。クリントンはアメリカ大統領として初めてガザを訪問してパレスティナ民族評議会に出席し、パレスティナ憲章からイスラエルの破壊を求める条項が削除されるのを見守った。その一方でネタニエフは合意をなかなか実行に移そうとしなかった。
 1999年5月、イスラエルがエフード・バラク(Ehud Barak)を首相に選んだ後、クリントンは和平交渉に関する主要な問題を解決するために2000年にキャンプ・デーヴィッドでバラクとアラファトを会談させる準備を整えた。交渉は、東エルサレムの将来とパレスティナ難民の帰還の権利をめぐって躓いた。数週間の交渉の後、両陣営は何の合意にも至らなかったことを表明した。パレスティナ人とイスラエル軍の間で衝突が起き、和平交渉は頓挫した。クリントンはオスロ合意を実施させることができなかった。

ラテン・アメリカ政策

 しかし、ハイチに関してクリントンは成功を収めた。ハイチでは軍事政権が民主的に選ばれた大統領に権力を渡すのを拒否した。アメリカは軍事的制裁を行う可能性を示唆した。軍事政権はアメリカの要求に従い権力を放棄した。アメリカ軍はハイチに入り、治安維持にあたった。
 クリントンはメキシコの通貨危機に対して議会の承認なしで借款を行った。1994年、メキシコの通貨が急落した。クリントンは、アメリカの商品の消費国であるメキシコを支援したいと考えた。クリントンは400億ドルの借款を供与しようと、議会に承認を求めたが、議会はそれを拒否した。クリントンは連邦為替安定基金から資金を得ることにした。連邦為替安定基金は、1930年代に創設された機関で、大統領がドルの価値を維持するために迅速に外国為替市場に介入することを可能にした。メキシコの通貨の下落によって、アメリカの南西部が悪影響を受け、メキシコからの違法移民が増加する恐れがあった。クリントンは大統領の決断でメキシコに200億ドルの借款を与えた。クリントンの措置はメキシコの財政危機を救済し、通貨と株式の価値を安定させた。メキシコは厳格な財政政策を維持し、民間投資を呼び込んだ。メキシコは決められた期限よりも前に利子とともに借款の4分の3を返済した。クリントンは、大統領の判断で外国政府の財政危機を救うことができることを示した。

医療保険制度改革

 1993年11月の北アメリカ自由貿易協定をめぐる争いに勝利したクリントンに対して、民主党の穏健派は、1992年の選挙で約束した政策、例えば福祉の改革を通じた個人の責任の追求を実現するために民主党を動かしてくれるのではないかと期待した。しかし、クリントン政権の次の戦いの矛先は、すべてのアメリカ人が人生のいかなる時でも恩恵を受けることができる医療保険制度に向けられた。この計画はニュー・ディール政策の権化であった。医療保険制度はヒラリー・クリントンを長とする630人から構成される国民医療改革に関する特別調査委員会によって案出された。医療保険制度は1993年9月に大々的に発表された。同制度は、1935年の社会保障の法制化以来、最も重要な福祉政策であった。労働者と事業者に課された賃金税をもとに新しい政府の給付が創設され、巨大な官僚制によって管理された。医療保険制度の法案は実に1,342ページにものぼる膨大なものであり、年間500億ドルから1,000億ドルの費用を要し、さらに巨大な官僚制を必要としたので、共和党や敵対する利益団体の激しい非難の的となった。最初、アメリカ国民はクリントンの提案を歓迎したが、医療保険制度によって最も深刻な打撃を被る小規模な会社を代表するアメリカ営利民間医療保険協会がスポンサーとなった広告によってアメリカ国民の支持は急速に衰えた。
 クリントン政権は、議会で超党派の協調を生み出し、国民一般に見解の統一を広めることで医療保険制度の反対者と妥協しようと試みたが、包括的な改革の実現は、数十年にわたって政党と国家を分断してきた政府の適切な役割に関する見解の不一致を根本的に解決することが必要であった。それは実現不可能なことであった。医療保険制度改革は1994年に葬られた。民主党の議会指導者と共和党の議会指導者によって考案された妥協案は議事妨害を打破するのに十分な支持を共和党から得ることができなかった。結果的に医療保険制度改革を提案したことでクリントンは保守派の怒りをかった。その一方で医療保険制度改革を成し遂げるという約束を果たせなかったことでクリントンはリベラル派を落胆させた。医療保険制度改革の失敗は、有権者に、党派的な争いを克服するという選挙公約に大統領は従っていないと思わせた。

1994年の中間選挙

 クリントンと民主党は医療保険制度改革の失敗だけではなく財政赤字削減の実現の代価を1994年の中間選挙で支払うことになった。均衡した予算を望む長期的な国民の姿勢は、均衡した予算に必要なはずの歳出削減と増税への反対によって抑制される。共和党は42年振りに上下両院で多数派を取り戻した。また州や地方政府でも共和党は多数の知事職と議席を取り戻した。共和党は、非常に党派的でイデオロギー的な選挙運動によって中間選挙で勝利を収めた。それは共和党の指導者のギングリッチの努力による。
 ギングリッチは300人以上の連邦下院議員候補に「共和党のアメリカとの契約」に署名するように説得した。それは、政府の事業を廃止し、規制を減らし、減税を行うことで小さな政府を復活させることを約束していた。世論調査によれば、多くの有権者は「共和党のアメリカとの契約」の詳しい条項を知らなかったが、共和党議員は民主党議員よりも「リベラルな国家」に挑戦しているように見えた。選挙の間、クリントンは「共和党のアメリカとの契約」を攻撃した。大統領の戦略は逆効果であり、共和党が、民主党を変え、ワシントン政界の党派的分裂を克服することができなかった大統領の失敗を強調するようにけしかける結果を招いただけであった。
 クリントンに対する失望は特に南部で強かった。南部で共和党は大いに党勢を伸ばした。1948年に南部の白人は大統領選挙で民主党に反旗を翻し始めた。レーガンは、税制、国家防衛、そして道徳的問題などで保守的な立場を推し進めて共和党の地盤を拡大した。1980年、元ジョージア州知事であったカーターに対して旧南部連合の11州のうち10州をレーガンは制した。同じ南部の州知事としてクリントンは1992年の大統領選挙で辛うじて4州を制したに過ぎなかった。
 1994年の選挙の最も顕著な特徴は、南部の白人の大部分が連邦議会選挙と州の選挙で共和党の候補者を支持したことである。以前は南部の民主党の候補者は、南部の白人が最も魅力がないと見なした全国的な党組織の側面から距離を置くことができた。しかし、クリントン政権の最初の2年によってそうした姿勢を保つことが難しくなった。クリントンは南部で有能な州知事として賞賛を受けていた。しかし、大統領としてクリントンが進めた軍隊内の同性愛者の差別撤廃や医療保険制度改革などの政策は、南部人の目には過酷なものとして映った。1994年の選挙から始まって、南部の共和党は大部分の知事職と上下両院の議席を占めた。

政治的三角形戦略

 1994年の中間選挙における共和党の劇的な勝利によって批評家は、クリントンは死に体の大統領であると評した。クリントンの再選の種は1994年の中間選挙の直後に蒔かれた。それは皮肉な結果であるが、まったく驚くべき結果ではない。1946年、1954年、そして1986年のように、与党から議会の支配権を奪った野党は政治的行き過ぎにより、大統領が盛り返す機会を与えることが多かった。中間選挙で被った決定的な敗北に対する大統領の反応は宥和であり、ほとんど懺悔に近いものであった。1992年の大統領選挙で生み出した影響力を再生しようとしたクリントンは1995年の一般教書で新しい社会契約を復活させた。

「私は、それを新しい社会契約と呼ぶ。しかし、それは、すべてのアメリカ人はただ権利を持つのではなく、神が与えた才能と決意の限り、身を起し、共同体や国家に何かを還元する確固とした責任を持つという古い理念に基づいている。機会は責任である。機会と責任は提携しなければならない。我々は他のものなしでは何かを得ることはできない。そして我々の国民共同体は、機会と責任なしでまとまることはできない。我々の新しい社会契約は、ニュー・エコノミーの挑戦に我々はどのように我が国民を備えさせることができるか、我々の政府を異なった機会に適合させるように働かせるやり方をどのように我々が変えるか、そして、我々の社会の傷付いた紐帯をどのように我々は修復でき、我々の共通の目的の下でまとまるかという新しい一連の理解である。我々の経済、我々の政府、そして我々自身に我々は劇的な変化を起こさなければならない」

 新しい社会契約を政府の行動に移すうえでクリントンは政治的三角形戦略を採用した。クリントンにとってリベラルな民主党議員と保守的な共和党議員の間で中道的な立場を築くだけではなく、右派と左派の衝突から離れた立場をとることが可能となるような新しい問題を見つけることが重要であった。新しい政治的三角形は、正統的な民主党議員と共和党議員を2つの頂点とし、残りの1つの頂点をクリントンが占めるというものであった。犯罪、税金、福祉、そして予算のような共和党が注目する問題に対して中立を保つことで、大統領は新たに中流階級に対する肩入れを示すことができた。

政府機能の停止

 クリントンが採用した政治的三角形を形成するという戦略は、1996年度の予算をめぐる議会との争いで顕著となった。中間選挙の勝利によって意気軒昂なギングリッチ率いる共和党議員は、2002年までに均衡予算を達成しようと劇的な減税と歳出の削減、そして連邦政府の債務限界の制限を提案した。彼らの提案の中で最も激しい議論を招いたのが受給者を保健維持機構やその他の民間の医療保険制度に加入させることによって医療保障制度の増大を抑制しようという提案である。彼らは自らの提案を民主党によって築かれた巨大な福祉国家を解体する最初の試みだと見なした。民主党議員は歳出削減に対して全面的な抵抗を行った。クリントンは10年で予算を均衡させる提案を行った。しかし、共和党議員は7年で予算を均衡すべきだとしてクリントンの提案を無視した。クリントンは大統領としてできる限りの戦略を駆使した。クリントンは、大幅な歳出削減、特に貧困者に対する歳出削減に反対し、繰り返し国民に訴えた。
 政府は継続予算決議の下、運営された。11月1日、クリントンと共和党の議会指導者はホワイト・ハウスで会談したが合意には至らなかった。数日後、共和党は新しい継続予算決議を可決し、債務限界の引き上げを決定したが、大統領が拒否権を行使すると言明していた条項を盛り込んだ。11月13日、クリントンが言明していた通りに拒否権を行使したために、政府の機能停止が引き起こされた。クリントンはホワイト・ハウス首席補佐官を議会に送り、機能停止を避けようとした。しかし、交渉の場に民主党議員も出席させるという点に共和党議員は納得せず、クリントンの申し出を拒否した。11月14日、連邦政府は必要不可欠な活動以外の政府機能を停止した。11月15日、ロバート・ルービン(Robert Rubin)財務長官は債務限界が引き上げられないことで引き起こされかねない連邦政府の債務不履行を避けるために異例の処置を行った。ルービンは借り入れを行うことなく国庫にある手元の現金を使って支払いを行い、州や地方政府向けの有価証券の発行を差し止め、政府が借り入れを行える限界を超えないようにするために年金会計から流用まで行った。
 政府が機能停止に陥ると、ようやく議会は法案を検討するために両院協議会の場に戻った。その6日後、大統領と共和党の議会指導者は行き詰まりを解消する協定を結んだ。クリントンは、予算をめぐる合意がないために起きた連邦政府の機能停止は共和党が支配する議会に責任があると指摘した。アメリカ国民は、民主党全国委員会がスポンサーとなった広告の効果もあってか、クリントンを支持した。ホワイト・ハウスは再び交渉の場に民主党議員を入れるように求めた。世論の支持が大統領にあるのを見た共和党は今回は抵抗しなかった。
 次の交渉は11月28日に始まり11月30日に終わったが、両陣営がお互いに批判しあう結果に終わった。クリントンは妥協法案に拒否権を行使し、独自に策定した7年で均衡予算を実現する提案を行った。共和党がクリントンの提案を拒否したために1月2日まで政府は再び機能停止に陥った。再び必要不可欠な活動以外の政府機能が停止された。政府は1996年3月28日まで継続予算決議で運営された。最終的にクリントンは共和党議員によって提案された厳しい削減を幾つか避けることができた。その一方で下院の共和党議員は大きな譲歩を余儀なくされた。しかし、クリントンは共和党が目標とする均衡予算の目標に取り組んだことで民主党議員の怒りをかった一方で、医療保障、医療扶助、教育助成など民主党議員に人気がある計画をほとんど変更せずに残すべきだと主張したために共和党議員の怒りもかった。
 1995年の政府の機能停止は、大統領が公式、非公式を問わず様々な戦略をとることができることを示した。クリントンは繰り返し共和党の予算案に対して不満を持っていることを国民に訴えかけることで議会に圧力をかけようとした。しかし、拒否権を行使するまで事態の進展を変えることはできなかった。共和党議員は拒否権が行使される危険を敢えて冒した。なぜなら1994年の中間選挙の勝利によって、国民は小さな政府を求めていると信じたからである。
 1996年の一般教書の中でクリントンは、共和党が支配する議会が最も好む主題を織り込んで、「大きな政府の時代は終わった」と宣言した。1995年9月に発行された国家業績評価の2年目の年間報告によると、国家再編計画でゴア副大統領が約束した予算の節減と人員の削減は達成された。さらに重要なことに、クリントンは民主党のリベラル派からの厳しい批判に耐え、1996年8月に、低所得の母子家庭に対する給付金を一時的な支援と厳格な就労要請に代える1996年福祉改革法に署名した。クリントンは1996年福祉改革法には、働く貧困層への支援を大幅に削減し、合法的な移民に対する支援を不公正にも否定した点で欠陥があると認めた。福祉の受給者に就労を強制することによって、1996年福祉改革法は、クリントンが1992年の大統領選挙で約束した国家の貧困層との社会的契約を再構成するという根本的な原理を推進した。

テロ対策

 独立した大統領としての信用を強めようとしてクリントンは有権者に党派に左右されない政治家としてのイメージを売り込もうとした。1995年4月19日に起きたオクラホマ・シティの連邦ビル爆破事件は1つの機会であった。クリントンの試みは成功した。爆破事件の直後にクリントンは、危機を迎えた時にアメリカ人が期待するような形で強い指導者としての決意と適切な言葉を示した。
 またタンザニアとケニアのアメリカ大使館に対してアル・カイダによって行われたテロ事件にクリントンは断固たる措置をとった。1998年8月、アル・カイダによって行われた爆破によって、タンザニアでは11人、ケニアでは212人が殺害された。クリントンは爆破事件の報復としてスーダンとアフガニスタンにあるアル・カイダの拠点に対して巡行ミサイルで攻撃した。さらに2000年10月12日、イエメンのアデン湾に停泊していた米駆逐艦コール号に対して自爆テロ攻撃が加えられ17人のアメリカ人兵士が死亡した。クリントン政権はホワイト・ハウス内に対テロ戦略を構想するテロ対抗安全保障グループを設置した。
 クリントンの確固とした姿勢が示されたのはオクラホマ・シティの爆破事件やアメリカ大使館に対するテロ事件だけではなかった。ホワイト・ハウスの職員人事は1992年の選挙の後の移行期に急いで決定され、混沌を極めていた。1994年にクリントンがレオン・パネッタ(Leon Panetta)を首席補佐官に、マイク・マッカリー(Mike McCurry)を報道官に任命した後、ホワイト・ハウスはより効率的に機能するようになった。

ボスニア政策


 外交政策の分野でクリントンは最高司令官としての自信を得た。クリントン政権1期の後半の2年間で、ボスニア、ハイチ、そしてメキシコへの支援を拡大するという不評の決定を下したクリントンの勇気をアメリカ国民は評価した。例えば1995年11月、クリントンが世論と議会の強い反対を押し切って2万の兵士をボスニアの平和維持活動に送り出した後、有権者のクリントンの外交政策への評価は却って上昇した。
 当初、クリントンはユーゴスラヴィアへの介入に乗り気ではなかったが、セルビアの民族浄化の対象となったボスニア人イスラム教徒のために、そして、アメリカのヨーロッパの同盟国からの圧力のために、クリントンはバルカン半島で平和維持活動をするためにアメリカ軍を展開することを余儀なくされた。国際社会でのアメリカの責任を担おうとするクリントンの決意は、予算をめぐる議会との戦いのすぐ後にもたらされたものであり、明確な原理を持たず曖昧な態度をとるという評判を覆した。

中国政策

クリントン政権下で中国との緊張が高まった。1995年、台湾の李登輝総統の訪米を許したことでクリントンは中国の怒りをかった。李登輝総統は台湾と中国の関係を国家間関係と見なしていた。中国は台湾をその一部と見なし、そうした見解に反発した。1996年の選挙が近付くと中国は台湾周辺での軍事行動を活発化させ、台湾海峡でミサイル試写実験を行った。クリントンは台湾を防衛するアメリカの意思を示すために2隻の空母を派遣し、中国の動きを牽制した。クリントンの決断は、台湾を支持する議会に影響を受けていた。
 1997年3月、中国海軍艦隊初のアメリカ本土訪問が行われ、最初の米中防衛協議対話が開催された。1997年10月、江沢民国家主席がアメリカを訪問した。江沢民の訪米は中国の国家元首として初であった。江沢民はクリントンとともに米中共同声明を発表した。江沢民は中国がボーイング社から50機のジェット機を購入する計画を示した。さらに中国がイランへの核エネルギー支援を停止する引き換えにアメリカは中国への核技術の売却を禁止しないという合意に至った。さらに環境問題に関する合意に至った。1998年6月、米中共同声明の合意に従ってクリントンが中国を訪問した。米中両国は、核不拡散と安全保障、経済、通商、科学技術、法執行力の向上、人的交流などの面で具体的な協力関係を築くことで合意に至った。さらにクリントンは、台湾の独立を支持せず、2つの中国政策をとらず、台湾は国家として国際機関に参加すべきではないと述べた。中国との緊張が緩和されたように思われたが、1999年5月、セルビアで作戦行動中のアメリカの戦闘機がベルグレードの中国大使館を誤って攻撃した。中国政府はアメリカの行動に抗議した。作戦に使われた地図が不正確だったのが事件の原因であった。その一方で、中国が長年にわたってアメリカ政府の研究所から核の機密に関する資料を盗み出していたことが分かった。

地球温暖化対策

 クリントン政権は1992年の大統領選挙から地球温暖化問題を政策課題として掲げていた。ゴア副大統領が環境問題に関してリーダーシップをとった。1993年に調印された国連気候変動枠組み条約で2000年までに温室効果ガスの5.5パーセントを削減することが定められ、上院も条約を批准した。しかし、エネルギー消費に課税するというクリントン政権の提案は議会に受け入れられなかった。さらに上院は1997年7月25日、アメリカ経済に深刻な影響を及ぼす議定書に調印するべきではないというバード=ヘーゲル決議を採択した。1998年11月12日、ゴア副大統領は京都議定書に調印した。しかし、議会の強い反対によって、議定書は批准されることはなかった。

1996年の大統領選挙

 クリントンの政治的三角形戦略と積極的な大統領のリーダーシップは1996年の大統領選挙で明白であった。1996年の大統領選挙でクリントンは、1994年の中間選挙の後で確立した中道主義の立場を貫き、「機会、責任、そして共同体」という新しい民主党の原理の下で選挙運動を展開した。クリントンは、ギングリッチと第104議会の急進主義に代わる穏健な選択肢を国民に提示することを主張した。クリントンは、最初は不評判だった増税と歳出削減に始まる経済政策が、結果的に4年連続の低いインフレ率、失業率の低下、堅実な経済成長、そして年間の財政赤字の減少をもたらしたと指摘した。さらにクリントンは、福祉改革の法制化と国内向け平和部隊の創設、そして共和党の攻撃から医療保障、医療扶助、教育政策、そして環境政策を守ることに成功したと強調した。党派に左右されない指導者としての立場を強化するためにクリントンはグランド・キャニオンでテレビ・カメラの前で環境に関する法案に署名し、ホワイト・ハウスでアラブ諸国とイスラエルの間の緊急会談を主催した。
 「21世紀に渡るアメリカの橋を築こう」という横断幕の下で、クリントンは、2期目の具体的な政策を述べる代わりに、空虚な「橋渡し」の弁論を繰り返した。またクリントンは世論調査で有利な立場を占めた時、自らの選挙運動を民主党議員の命運に結び付けることを避けた。1995年におけるクリントンの政治的盛り返しは、規制の対象とならない選挙運動資金の寄付によって勢いを得た。そうした寄付は政党を運営する活動に向けられたものであり、連邦の選挙運動資金を規制する法によって制限されなかった。しかし、そうした経費は、1995年の予算をめぐる争いで共和党が支配する議会を攻撃するテレビ広告を中心にした選挙運動に使用された。結果的に、選挙の末期における法的に疑念が残る選挙資金集めの方法をマス・メディアが暴露したために、クリントンは50パーセント以上の一般投票を獲得することができず、民主党も議会で多数派を取り戻すことができなかった。1996年の選挙は1992年の選挙と違って、有権者の多くは、投票日の出口調査で同じ政党が大統領職と議会の多数派を占めるよりも分断された政府を好むと答えた。
 クリントンの選挙運動は、共和党の大統領候補のボブ・ドール(Bob Dole)と比べて将来の見通しがあるものであった。5人に1人の有権者が、将来の見通しが投票する際の重要な基準だと見なしていた。1992年にも出馬したペローが改革党の大統領候補として出馬し一定の支持を集めた。ペローに一定の支持が集まったことは二大政党制度の脆弱性を示していた。1968年から1996年に行われた8回の大統領選挙の中で4回において、有力な無所属候補か、もしくは第三政党の候補が出馬していた。1968年の大統領選挙ではジョージ・ウォレスが14パーセントの一般投票と46人の選挙人を獲得した。1980年の大統領選挙ではジョン・アンダーソンが7パーセントの一般投票を獲得した。1992年の大統領選挙ではペローが19パーセントの一般投票を獲得し、さらに1996年の大統領選挙でも8パーセントの一般投票を獲得した。1968年から1996年の間にそうした候補は平均で7.5パーセントを得票していた。それに比べて、1936年から1964年の間にそうした候補は平均で1.5パーセントしか得票していなかった。第三政党の活動が拡大した時代は以前にもあった。1848年から1860年の12年間と1892年から1924年の32年間である。しかし、現代においては党組織に無関心、もしくは敵意を抱く独立候補が出現するようになった。
 クリントンはペローの極めて個人的な政治手法を公然と模倣した。政治的三角形が選挙運動の戦略の基本方針に据えられ、大統領を1960年代後半以降の政党政治を支配してきたつまらない争いから距離を置く部外者に位置付けた。クリントンは49.2パーセントの一般投票と379人の選挙人を獲得した。その一方でドールは40.7パーセントの一般投票と159人の選挙人を獲得した。この結果によって、強い経済に支えられたクリントンの選挙戦略は有効であったことが示された。クリントンはフランクリン・ローズヴェルト以来、初めて再選を果たした民主党の大統領になった。クリントンが行った候補者を中心に据えた選挙運動は、追求できる戦略の中で最も安全な戦略であったが、変化を志向した政策綱領と弱い議員候補も当選させる力に基づいて国民の信任を勝ち取る機会を失わせた。クリントンが当選した一方で、民主党は上下両院で多数派を取り戻すことができなかった。
 1996年の大統領選挙の投票率は49パーセントであり、1924年以来、最低の数字であった。1924年当時は、憲法修正第19条によって選挙権を与えられたばかりの多くの女性が投票しなかったことに加えて、多くの州が移民とアフリカ系アメリカ人を差別する選挙登録法を定めていた。国民の政党への強い愛着が政治への参加を促し、投票行動を意味あるものにしたが、愛着が弱まれば国民は政治から遠ざかった。党派心の衰えと候補を中心とした選挙運動の登場によって、有権者は自らの投票行動がその後の政府の行動に繋がるとはあまり考えなくなった。

第3の道

 クリントンは大統領としての成功を共和党の保守主義と民主党のリベラリズムの間に「第3の道」を作ることによって達成しようとした。ワシントン政界における政党間の分断とそれ以外での党派的忠誠心の衰えは、クリントンに政治的信条を結び付けるという手腕とともにある種の人の心を動かす力を与えた]。妥協を生み出すクリントンの才能は、1997年5月に共和党の議会指導者と2002年までに予算を均衡させる案について同意した際に示された。同意は明らかに共和党の条件を優遇したものであった。予算に劇的な措置が加えられた。16年間で初めて純減税が行われ、医療保障が厳しく抑制され、そして、その他の恣意的な歳出も抑制された。予算の優先権は完全に共和党のほうに傾いた。
 それにも拘わらず、クリントンは重要な譲歩を共和党議員から引き出した。そのためクリントンは、予算案を受け入れるように大半の民主党議員を説得することができた。最も重要なのは、1996年福祉改革法を多くの点で補った1997年均衡予算法である。同法により、移民に給付金と食料切符を与えるための追加資金が認められた。さらに同法により、医療保障を受けることができない低所得の家族に対する児童保険計画のために160億ドルの拠出が認められた。こうした譲歩を勝ち取ることによってクリントンは、貧困層と新しい社会契約を結ぶという約束を果たしたと主張することができた。
 健全な経済のお蔭で歳入が増えたために、大統領と共和党が支配する議会の間で予算をめぐる合意が成立しやすくなった。そのことにより、1期目で起きた深刻な争いを再現するような政策の削減や税に関する厳しい選択を避けることができた。そうした厳しい選択は、国家の長期的な財政の健全性を保つために、特に社会保障、医療保障、そして医療扶助のような給付政策に関して行われなければならなかった。1998年度に達成された均衡予算に関する妥協は、政党間の深い溝を意に介せず政策を推進できる能力が現代的大統領にあることを示した。

ホワイトウォーター疑惑

 しかし、1998年の下院における弾劾と1999年の上院における審問は、非常に独立した現代的大統領に問題が山積していることを示した。レーガンとブッシュが独立検察官による権力濫用に関する調査に悩まされたように、クリントンと閣僚は厳しい精査にさらされた。共和党は長い間、公職者の資産公開、独立検察官の任命、元公職者のロビー活動に対する規制を定めた1978年政治倫理法を再認可することに反対していた。同法を再認可しようとする民主党の試みへの共和党の抵抗は、1993年にホワイトウォーター疑惑が起きた時に終わりを迎えた。
 ホワイトウォーター疑惑は、クリントンが1980年代に共同経営者となっていた不動産開発会社を通じて不正な土地取引や不正な融資を行っていたという疑惑である。疑惑の中心は、破産した貯蓄貸付会社を運営していたクリントンの事業提携者のジェームズ・マクドゥーガル(James McDougal)である。マクドゥーガルはアーカンソー州ホワイトリヴァーの不動産取引に関して不正な取り引きを行ったという疑惑を受けた。マクドゥーガルは、1980年代にクリントンと提携して行ったホワイトリヴァーの事業に充当するために破産した貯蓄貸付会社の資金を不正に流用したことで告発されていた。さらにヒラリー・クリントンのローズ法律事務所から請求書の記録が紛失し、再び発見されたことに疑惑の目が向けられた。その記録は、ヒラリー・クリントンがマクドゥーガルのために法務を行い、商取引に関与していたことを示していた。
 ケネス・スター(Kenneth Starr)独立検察官がホワイトウォーター疑惑を究明する調査委員会の長を務めることになった。1999年末までにヒラリー・クリントンと大統領自身に関して犯罪的関与を示す証拠は何も見つからなかったが、14人の関係者が有罪判決を受けた。その中にはマクドゥーガルの他、クリントンの後にアーカンソー州知事になったジム・タッカー(Jim Guy Tucker)も含まれていていた。2002年3月、ロバート・レイ(Robert Ray)独立検察官は、最終報告の中で、大統領とヒラリー・クリントンが、マクドゥーガルがホワイトウォーターの事業を進めるために行った不正な取引に関与していることを裏付けるには十分な証拠がないと結論付けた。
 これまでクリントンが大統領のなる前の行動はほとんど議論の対象にならなかったし、深刻な調査の対象とはならなかった。しかし、党派的憎悪によって共和党は、民主党がレーガン政権やブッシュ政権に対して行った攻撃に復讐しようとし、クリントン政権の行政官を厳しい議会の監査にさらしたのである。ホワイトウォーター疑惑でクリントンは有罪にならなかったものの、民主党と共和党の亀裂は深まり、大統領の威信は損なわれた。

ジョーンズ事件

 1997年のクリントン対ジョーンズ事件で最高裁は初めて現職大統領が民事訴訟で裁判を受けるという判定を下した。アーカンソー州の職員であったポーラ・ジョンズ(Paula C. Jones)は、クリントンがアーカンソー州知事だった1980年代に性的嫌がらせを受けたと主張した。さらにクリントンの接近を拒否したために懲罰的な措置を受けたと主張した。クリントンは大統領の免責特権に基づいてジョーンズの訴えを完全に斥けた。連邦地方裁判所は、大統領の免責特権を斥け、宣誓証言を行うことを決定したが、クリントンが大統領の責務を果たすまで審理を行わないという判断を示した。1995年1月、ジョーンズは審理の先延ばしについて控訴した。連邦控訴裁判所はジョーンズの訴えを認めた。1996年5月15日、クリントンは大統領を退任するまで審理を先延ばしするように最高裁に控訴した。最高裁は大統領選挙が終わるまで審理を先延ばしすることを認めたが、その1年後、審理を進めることを認めた。1998年1月7日、モニカ・ルインスキーは宣誓供述書で、クリントンとの性的関係を否定した。1月17日、宣誓証言でクリントンもルインスキーとの性的関係を否定した。2月、クリントンは訴訟の棄却を求めた。3月、ジョーンズの弁護士は、ジョーンズ事件がクリントンの性的問題の一部に過ぎず、その他、多くの女性が同様の事件に巻き込まれていると主張し、さらに証拠の隠滅が図られていると訴えた。
 1998年4月1日、連邦地方裁判所は、クリントンに対する訴えを法的根拠がないとして棄却した。ジョーンズは控訴したが、1998年11月、両者の間で和解が成立した。クリントンはジョーンズに85万ドルを支払い、その代わりにジョーンズは訴訟を取り下げ、クリントンに謝罪を求めず、罪を認めるように求めることもしない。1999年4月、連邦地方裁判所はジョーンズ事件で、クリントンが宣誓証言で嘘をつき法廷を侮辱したと判定し、訴訟費用を支払うように命じた。
 1998年1月、スター独立検察官は、ホワイトウォーター疑惑に関する取調べの範囲を、大統領がホワイト・ハウス実習生のルインスキーと性的関係を持ち、大統領とその友人のヴァーノン・ジョーダン(Vernon Jordan)が、宣誓の下、嘘の証言をするようにルインスキーに勧めていたという申し立ての追及に広げる権限を与えられた。クリントン政権は、スターとその支持者を大統領に対して中傷を行っていると非難することで応じた。クリントンの素早い反撃は世論の裁きの場で有効であった。国民の間の大統領の人気はスキャンダルに直面しても高いままであった。
 しかし、スターの調査に対する協力に乗り気ではなかったためにクリントンは広範な行政特権を主張した。スターによって招集された起訴陪審で、補佐官のシドニー・ブルーメンソール(Sidney Blumenthal)やブルース・リンジー(Bruce Lindsey)、そしてシークレット・サーヴィスの要員が証言することを妨げようとクリントンが主張した行政特権は連邦地方裁によって否定された。クリントンは、腹心のリンジーに対する追及を避けようとして、弁護の依頼人が持つ特権を主張し続けた。この主張は裁判所だけではなくジャネット・レノ(Janet Reno)司法長官にも否定された。レノは、刑事事件において求められる証拠が不可欠だと判事が判断した場合、そうした特権は認められないと主張した。
 1998年9月21日、スター独立検察官は、クリントンがクリントン対ジョーンズ事件で偽証し、起訴陪審で証言する側近に影響力を及ぼした証拠を提示する報告を発表した。また1995年から1996年の間のクリントンとの関係についてのルインスキーの証言やルインスキーがクリントン対ジョーンズ事件の宣誓供述書でそれを否定したことが含まれていた。

項目毎の拒否権

 クリントンの擁護に乗り気ではない民主党員はレノだけではなかった。多くの民主党議員は、彼らの政策や選挙の見通しに大統領が無関心であると思い込み、共和党がスキャンダルを大統領に対する攻撃に使おうとしている中、沈黙を保った。民主党議員との不安定な関係はクリントンの立法計画の実現をも脅かした。例えば、下院の民主党議員の大半は、クリントンに国際的な貿易協定を結ぶために一括承認手続きをとる権限を与える法案を支持することを拒んだ。そうした権限は、以前、民主党が支配する議会によってフォード、レーガン、ブッシュといった共和党の大統領に与えられていた。
 さらに民主党議員は1995年に共和党が支配する議会が大統領に認めた項目毎の拒否権に挑戦した。1994年の中間選挙で勝利した共和党は、40年振りに上下両院で多数派を占めた。「共和党のアメリカとの契約」の中に項目毎の拒否権を大統領に与える案が含まれていた。その目的は議員が政治的配慮で地元に与える政府事業を、予算全体の成立を妨げることなく廃止する権限を大統領に与えることであった。こうした権限は多くの州知事が持っており、多くの大統領がその必要性を訴えていた。例えば1986年、レーガンは一般教書の中で項目毎の拒否権を大統領に与えるように求めている。共和党が支配する議会は、共和党の大統領が選挙に勝利して項目毎の拒否権を行使することを期待して項目毎の拒否権を大統領に与えたのである。民主党議員の反対にも拘わらず、クリントンの強い支持の下、通過した法は、予算法案に署名して5日以内に、税制上の優遇措置や給付政策のような新たな支出案を拒否する権限を大統領に認めるものであった。そして、大統領の拒否は、両院の3分の2の表決でのみ覆される。クリントンは、アラバマ州アラブの新しい警察訓練センターに充てられた1万5,000ドルの予算項目から小惑星を迎撃するための空軍の計画に充てられた3,000万ドルの予算項目に至るまで11の法で28項目に関して拒否権を行使した。
 項目毎の拒否権を認める法が発効すると、ロバート・バード(Robert Byrd)上院議員とその他の民主党議員は、項目毎の拒否権は大統領に法案に拒否権を行使することを認めた憲法の規定に反しているとして告訴した。1997年、最高裁は、彼らは項目毎の拒否権から何の直接的な損害も受けていないので彼らの告発事由は不十分であるという判決を下した。しかしながら、1998年に最高裁は、クリントン対ニュー・ヨーク市事件で「すべての法案は、法となるに先立ち、合衆国大統領に送付されることを要する。大統領はこれを可とすれば、これに署名する。否とすれば、これに反対理由を添えて、これを発議した議院に還付する」と定める憲法第1条第7節に基づいて項目毎の拒否権を違憲と判断した。項目毎の拒否権は、議会の法の部分的な撤廃に等しい。憲法は、大統領に法を制定し、修正し、撤廃する権限を認めていない。大統領に項目毎の拒否権を認めることは三権分立の原理に反するので、大統領と議会の間の権力の均衡を変える唯一の手段は憲法修正である。
 ニュー・ヨーク市は、医療扶助制度に関連する税制上の優遇措置に対する拒否権の行使に反対していた。同様にスネーク川じゃがいも生産社は、法によって与えられた税制上の優遇が項目毎の拒否権によって否定され損害を受けたという事由で告訴した。最高裁はクリントン対ニュー・ヨーク市事件と同様の判決を下した。15年前、最高裁が、まさに同じ憲法の条項に基づいて入国許可局対チャダ事件で、法の執行について自由裁量権を行政府に与えた後で議会が拒否権を行使することを違憲と判断したのは記憶に新しい。

大統領弾劾

 クリントンの個人的な評判の低下と大統領がこれまで中間選挙で概ね敗退してきた状況からして、ほぼすべての専門家は、共和党がさらに議会の支配を確実にすると予測した。しかし、共和党はスキャンダルの攻撃に忙殺されて、魅力的な選挙運動の主題に欠けていた。その結果、共和党は上院で議席数を増やすことができず、下院では議席を減らした。クリントンは、フランクリン・ローズヴェルト以来、初めて中間選挙で自党が議席数を伸ばすことができた大統領となった。選挙の後、1994年の英雄であったギングリッチは指導的な立場だけではなく議席からも退くことを公表した。
 クリントンが友人や補佐官と政治的盛り返しができる主題を探していた一方で、共和党は着実に弾劾に向けて準備を進めていた。中道主義の世論に支持された政治家としてクリントンは、世論調査で示された人民の意思を意に介しない共和党を過小評価していた。共和党議員は固く団結していた。共和党を支持する有権者、特に党の保守派の活動家達は強く弾劾を支持していた。
 1998年10月8日、下院がスター検察官の申し立てに対して調査を行うことを決定した。その結果は下院司法委員会に報告された。1998年12月19日に下院は偽証の教唆と司法妨害で大統領を罷免するように上院に勧めることを表決した。表決は党派的傾向が強く現れていた。偽証の教唆に関しては226票対206票で認められた。共和党員は5人を除くすべてが賛成票を投じた。一方で、民主党員は5人を除くすべてが反対票を投じた。司法妨害に関しては221票対212票で認められた。共和党員は13人を除くすべてが賛成票を投じた。一方で、民主党員は5人を除くすべてが反対票を投じた。しかし、偽証に関しては205票対229票、権力濫用に関しては148票対285票で否決された。
 弾劾にさらされてもクリントンに対する国民の支持は衰えなかった。世論調査によれば65パーセントの有権者が弾劾を支持していなかった。下院の歴史的な行動の直後、アメリカ人の大部分はクリントンの業績を評価し、上院の審判に反対し、共和党議員はアメリカ人の気持ちを分かっていないと主張した。しかし、共和党議員は弾劾の過程を頓挫させるつもりはなかった。上院の審判は1999年1月7日に始まった。大統領の罷免が成立するには出席議員の3分の2の同意が必要であった。1999年2月12日、上院は偽証の教唆に関して55票対45票で否決した。10人の共和党議員が反対票を投じた。さらに司法妨害に関して上院は50票対50票で否決した。その結果、クリントンは罷免を免れた。
 もし政治倫理法があれば弾劾の過程で大きな役割を果たしていただろう。同法は1999年に失効した後、再認可されていなかった。弾劾の過程は現代的大統領制度を傷付けた。ハミルトンは行政権の濫用を抑止するために、弾劾の過程は深刻な公的信用の侵害の調査に限って行うべきだと主張した。アンドリュー・ジョンソンとニクソンに関する弾劾は党派的傾向が明らかであった。その2つの事例はどちらとも重要な憲法上の問題を含んでいる。クリントンの弾劾も党派的傾向から逃れることはできなかった。共和党は彼らの目的を達成するのに十分な見識を持っていないか、それとも一時的な政治的利益のために憲法を悪用したかであった。いずれにせよ、憲法上の均衡と抑制の仕組みの重要な部分である弾劾の手段としての信用性を貶めたことは間違いない。

トラヴェルゲート

 クリントン政権では他にもスキャンダルが起きている。代表的なのがトラヴェルゲート、ファイルゲート、チャイナゲートである。1993年5月、ホワイト・ハウスの旅行局の職員が何の通告もなしに罷免された。クリントンが指名する職員が取って代わった。特定の罷免理由がなかったために抗議が行われたが、罷免された職員はすぐに別の仕事に移された。クリントンは、旅行局局長のビリー・デール(Billy Dale)を復職させなかっただけではなく、不正行為の疑いで連邦捜査局の機密ファイルを請求した。デールはケネディ政権以来、その職にあり、長期間務めている職員として尊敬され、非難を受ける点などなかった。30ヶ月に及ぶ調査の後、デールは裁判にかけられた。1995年11月16日、陪審はデールに無罪を宣告した。デールの告発は悪意のあるものだと見なされた。1996年9月、上院はデールのために法定費用を支払うことを認めた。

ファイルゲート

 1996年1月、下院政府改革監視委員会はホワイト・ハウスからデールの経歴記録を取り寄せようとした。ホワイト・ハウス法律顧問のジャック・クイン(Jack Quinn)は行政特権に基づいて、旅行局の職員の罷免に関する3,000にのぼる関連文書の引き渡しを拒否した。下院がクインを議会侮辱罪に問うと脅かすと、クインは要求された文書の3分の1を下院に引き渡した。その文書の中には、ホワイト・ハウスがデールの機密ファイルを連邦捜査局に請求した証拠が含まれていた。機密情報の不適切な請求を追及されると、ホワイト・ハウスは事務的な誤りだと弁明した。下院政府改革監視委員会は、ホワイト・ハウスが連邦捜査局に機密ファイルを請求した一覧をホワイト・ハウスに提出するように求めた。これが新たなファイルゲートの引き金となった。1996年9月、下院政府改革監視委員会は、トラヴェルゲートに関する報告書を公表し、クリントン政権は行政特権を著しく濫用していると非難した。
 下院政府改革監視委員会が、機密ファイルを連邦捜査局に請求した一覧をホワイト・ハウスに提出するように求めたことによって、数百の機密ファイルがホワイト・ハウスに移っていることが判明した。最初、クリントン政権は会計検査院が機密ファイルを請求したと釈明したが、会計検査院はそれを否定した。さらにホワイト・ハウスは300以上の機密ファイルを請求したが、どのファイルも読んでいないと主張した。またシークレット・サーヴィスによって作られた古い一覧を片付けていただけだと主張した。連邦捜査局の機密ファイルの一覧に名前が載っていることを知った人々は激怒し、プライヴァシー法の侵害で訴えると述べた。1996年6月半ばまでに、連邦捜査局は、クリントン政権が公式な目的なしに400以上の機密ファイルを取得したことを明らかにした。
 ホワイト・ハウスは機密ファイルの取得は、ブッシュ政権から留任している職員の背景情報を調べる目的で行われたと認めた。下院政府改革監視委員会がホワイト・ハウス人事安全保障局局長のクレイグ・リヴィングストン(Craig Livingstone)に質問した時、リヴィングストンは機密ファイルが閉じられてない部屋に保存されていたことを明かした。それは実質的にホワイト・ハウスの職員の誰でもファイルを見ることができたことを示していた。ホワイト・ハウス首席補佐官のレオン・パネッタは、そうした不適切な取り扱いを是正するために人事安全保障局に新しい指針を設けることを公表した。ジャネット・レノ司法長官はスター独立検察官にこの件を調査するように求めた。1996年6月までにリヴィングストンは辞任した。
 最終的に調査が終わった時、900から1,000の機密ファイルが連邦捜査局から取得されていたことが分かった。ホワイト・ハウスはファイルを使って政敵のデータベースを作っていたのではないかという疑惑がかけられた。1999年、ロバート・レイ独立検察官がスター独立検察官の調査を引き継いだ。2000年3月16日、レイ独立検察官は報告を公表した。レイは、ホワイト・ハウスの重要な職員が連邦捜査局の機密ファイルの取得に関与したという明白な証拠はなかったと結論付けた。

チャイナゲート

 チャイナゲートは、クリントンが外国の個人、企業、政府からお金を受け取ったという疑惑である。選挙資金に関する法は、外国の組織からお金を受け取ることを禁じ、党派的な目的で資金を集めるために電話、ファックス、不動産など連邦資産を使用することを禁じている。クリントンはアーカンソー州知事時代から中国やアジアの実業家と関係を持っていた。多くの外国人が民主党全国委員会とクリントンの再選を目指した選挙運動に寄付していることが判明した。
 民主党全国委員会は、寄付者の一覧をまとめて提出するように求める連邦選挙委員会の要請を拒否した。共和党全国委員会は法的手段に訴えると主張した。民主党全国委員会は、管理上の誤りがあったと主張して、一覧の一部のみを提出した。さらなる問題はクリントンの友人であるアジアの実業家に対する優遇措置であった。クリントン政権は、移民の兄弟の入国禁止を撤廃したり、特定の国に対して外交的承認、貿易権、最恵国待遇を与えたりするなどこれまでの政策を変更した。
 クリントンはホワイト・ハウスの電話を資金集めに使い、ホワイト・ハウスで資金集めの集会を開き、大口の寄付者にホワイト・ハウスのリンカンの寝室で一夜を過ごすことを認めることで報いたと非難された。そうした非難はホワイト・ハウスの記録で証明されたが、告発はされなかった。
 ゴアは非営利組織の仏教寺院で開かれた資金集めの催事に参加した。14万ドルの寄付が集まったが、民主党全国委員会はその大半を返却した。民主党全国委員会とクリントンの選挙運動に寄付した者の中には、中国系インドネシア人、韓国企業の子会社、中国の実業家に近い人物などが含まれていた。民主党全国委員会は、中国の実業家に近い人物から寄付された36万6,000ドルを出所が不明だとして返却した。その人物は中国政府からお金を受け取って寄付したことを認めた。民主党全国委員会は一部の寄付の出所が外国であることを認めざるを得なくなった。多くの寄付が返却されたが、民主党全国委員会もクリントンの選挙活動も告発を受けなかった。

積極的差別是正措置

 クリントンは上院の審判で無罪を勝ち取り、国民の間で依然として高い人気を誇っていたが、クリントンと議会の間の問題はこれで終わりではなかった。クリントンの立法計画はほとんど法制化されなかった。その中には選挙資金改革、煙草規制、学校建設、最低賃金の引き上げ、そして患者の権利章典が含まれていた。しかし、クリントンはあらゆる場合において共和党の反対や民主党の支持の不足によって妨害される弱い大統領であるという認識は、クリントンの管理大統領制度の積極的な行使と矛盾していた。1995年からクリントンは自らの目標を達成するために議会の承認の有無を問わず、煙草規制や環境保護といった問題に対して多くの大統領令、規制、声明などを出して政策目標を実現した。
 クリントンは裁判所の攻撃に対して、連邦事業の契約者に積極的差別是正措置をとるように求めるリンドン・ジョンソンの大統領令11246号を支持した。1995年、アダランド建設会社対ペナ事件で最高裁は、社会的、経済的に不利な少数者の所有する会社に下請けに出す契約者に10パーセントまでの報奨金を与える計画を覆した。すべての人種的優遇措置は憲法上、疑念があると最高裁は判定した。この判決は、最高裁が少数者の企業への最低割当量を定めた計画を否定した最初の判決となった。また大統領令11246号への政治的圧力が強まった。1996年の大統領選挙に出馬することを表明した多くの共和党候補がもし大統領に選出されれば大統領令11246号を撤廃すると約束していた。クリントン政権は、17の少数者の企業への最低割当量を定めた計画を廃止したが、雇用慣行における積極的差別是正措置は維持した。1988年5月、クリントンは大統領令13087号を発令した。同令により、連邦機関における性的信条に基づく採用の差別が初めて禁止された。共和党の指導者と保守的な宗教団体は、積極的差別是正措置の恩恵を受ける新しい保護された階級を生み出したとクリントンを非難したが、議会は行動しなかった。20世紀を通じて、議会が立法を通じて大統領令を覆そうとしたことはほとんどなかった。

コソヴォ政策

 クリントンはバルカン半島での軍事力行使に対する議会の反対を再び抑えた。今回の対象はコソヴォである。1998年、コソヴォ解放軍はセルビアからの独立を求めて軍事行動を激化させた。それに対してセルビアはアルバニア人への攻撃を行った。クリントンは国際社会に行動を起すように呼びかけた。国際連合が休戦を呼びかけたことに加えて北大西洋条約機構は、もしコソヴォでの軍事行動を停止しなければ、軍事措置をとるとセルビアに警告した。1998年10月、セルビアは休戦に同意した。しかし、休戦は破られた。1999年5月に下院はコソヴォ空爆を認める決議を否決したが、クリントンは北大西洋条約機構の勝利を追求し、平和会談への道を開いた。6月10日、大統領は、コソヴォでの勝利を達成したと宣言した。軍事問題に関する経験不足を指摘されたクリントンは、最高司令官としての大統領の権限を主張した。

11時の恩赦

 市民と政府の間に新しい社会契約を結ぶ際に発揮されたクリントンの道義的権威は、クリントン個人の道義に対する不信感によって損なわれた。弾劾の過程で示された悪意に満ちた党派的分断によってクリントンは民主党議員の中に避難場所を探さなければならなくなった。そのためにクリントンは政権の最後の業績として給付政策改革を行う計画を断念せざるを得なかった。弾劾を受けた後、クリントンは社会保障と医療保障の擁護者を以って自らを任じ、議会に財政黒字をリベラルな政策に投資するように促した。
 クリントンは大統領としての最後の日に「11時の恩赦」を行った。クリントンは、脱税とイランとの違法な石油取引で告発されているマーク・リッチ(Marc Rich)とピンカス・グリーン(Pincus Green)に恩赦を与えた。他にもクリントンは、140の恩赦と減刑を行った。1日で最も多くの数の恩赦を行ったのはニクソンである。1972年12月12日、ニクソンは204の恩赦を行った。クリントンの恩赦の中には、異父兄弟のロジャー・クリントン(Roger Clinton)やホワイトウォーター疑惑に関して証言することを拒否して収監されたスーザン・マクドゥーガル(Susan MacDougal)が含まれていた。
 しかし、公衆の怒りをかったのはリッチの恩赦であった。リッチの元妻は100万ドル以上を民主党に寄付し、クリントン一家に法廷費用として1万ドルを渡していただけではなく7,300ドル相当の家具や贈り物を渡していた。その結果、議会による調査が開始され、恩赦は検察官にも調査されたが、クリントンの不正行為は何を見つからなかった。

結語

 訴訟や弾劾を避けようとしたクリントンの試みによって、大統領の権威を弱める一連の判決が出された。クリントン対ジョーンズ事件で、最高裁は性的嫌がらせの訴訟に対する大統領の免責特権を否定した。判決によって、現職の大統領であれ民事訴訟の対象となることが確立された。さらにスターの調査に基づく控訴裁判所の判決によって、シークレット・サーヴィスも大統領の顧問弁護士も行政特権をもとに犯罪捜査における証言を拒否できないという前例が確立された。知事としての行いと大統領としての行いに対する調査を阻もうとしたクリントンの努力によって、憲法上の安全装置である大統領の免責特権と行政特権が侵害され、ウォーターゲート事件後の大統領の威信の低下が決定付けられた。
 こうした安全装置を剥ぎ取られて、クリントンの後継者は、国民を当惑させないように私生活を送るように余儀なくされた。しかし、大衆的な大統領のリーダーシップの勃興によって、大統領は以前よりも説明責任を負わなくなった。クリントンの第3の道は大統領を中心とした選択肢であり、野党に対する選択肢であっただけではなくクリントン自身に対する選択肢であった。現代的大統領は市民に大統領個人に支持を与えるように促すが、そうした支持は大統領の業績に不満があれば急速に衰えた。歴史的に、政治勢力の再編は政党を主導するリーダーシップが必要であり、大統領が新しい党の形成や既存の党の改変で主要な役割を果たしてきた。しかし、予備選挙の広まり、連邦政府の行政権の拡大、マス・メディアの勃興などの革新主義の時代以来の発展は、大統領が独自のイメージで創り出した組織の長として統治を行うことを可能にした。
歴代アメリカ合衆国大統領研究