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アメリカ歴代大統領研究ポータル

アメリカ大統領の中で辞任した者は誰か

歴代アメリカ大統領の中で暗殺された大統領は?


エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺

リンカーン大統領の暗殺
 アメリカ大統領の中で暗殺された大統領は全部で4人。ここではその4人について順番に説明する。 
 暗殺された大統領の1人目は第16代エイブラハム・リンカーン大統領。1865年4月14日午後10時15分に首都ワシントンのフォード劇場でウィルクス・ブースによって狙撃された。
 4月11日、ブースは、ホワイト・ハウスに集まった群衆に向けてリンカンが投票権をアメリカ系アメリカ人に与えなければならないと演説するのを聴いたいたという。暗殺決行の3日前である。
 ブースは南部連合の支持者であり、南北戦争が起きた原因はリンカンにあると考えていた。最初、ブースはリンカンを誘拐して捕虜収容所に収監されている南部連合の兵士と交換する予定であったが、南北戦争の終結を知って計画を暗殺に切り替えた。
リンカーン大統領が暗殺されたフォード劇場の現場 暗殺者ジョン・ブース
 (上) 暗殺現場
 (右) 暗殺者ジョン・ブース
 1865年4月14日、リンカーンはメアリ夫人や友人達とともにフォード劇場で観劇中にジョン・ブースによって背後から頭部左側を銃撃され意識が戻らぬまま、翌朝7時22分、亡くなった。ブースは「暴君の最後は常にかくのごとし」と叫んで逃亡した。この事件が起きたのは南北戦争が終結して6日後であった。
 実はブースとその一味は、リンカーンだけではなく副大統領のアンドリュー・ジョンソンと国務長官のスーアードも殺害する予定であった。行政府の混乱によって南部連合が復活する引き金となることをブース達は期待した。スーアードは襲撃を受け、首と顔に傷を負った。その一方でジョンソンを襲撃する予定だった暗殺者は襲撃を実行に移さずに逃亡した。
 4月26日、ワシントン近郊の納屋に潜んでいるところを発見されブースは銃殺された。ブースの共謀者は逮捕され軍法裁判にかけられた。1865年7月、有罪を宣告された中で4人が絞首刑に処せられた。

ジェームズ・ガーフィールド大統領の暗殺

ガーフィールド大統領の暗殺
 2人目の暗殺された大統領は第20代ジェームズ・ガーフィールド大統領。1881年7月2日午前9時30分に首都ワシントンのボルティモア・アンド・ポトマック駅でチャールズ・ギトーが大統領を撃った。
 ギトーはなぜガーフィールドを暗殺しようとしたのか。ギトーは大統領から公職に任命されることを期待する一方で、ガーフィールドによるコンクリング一派への攻撃に怒っていた。ギトーは暗殺の朝、「大統領の悲劇的な死が悲しいが必要であり、それが共和党を1つにし共和国を救うことになる。私は大統領に対して悪意を持っていない。彼の死は政治的に必要だ」と記している。ギトーは逮捕された時、「私は堅固派であり、アーサーが大統領だ」と述べた。弁護士はギトーが狂っていることを理由に無罪を訴えたが、ギトーは有罪宣告を受け、1882年6月30日、絞首刑に処せられた。
ガーフィールド大統領の暗殺現場 暗殺者チャールズ・ギトー
 (上) 暗殺現場
 (右) 暗殺者チャールズ・ギトー
 今日の医療技術であればガーフィールドは命を落とすことはなかっただろうと医療史の研究者は考えている。1881年当時の医療技術では大統領を救うことができず、むしろその死を早めた。医師は消毒されていない器具で打ち込まれた銃弾を発見しようとガーフィールドの体内を探った。その頃、発明された金属探知機も使用された。ガーフィールドは敗血症に罹り、9月19日に亡くなり、副大統領のチェスター・アーサーが大統領に昇格した。
 検死の結果、医師は誤った場所を探っていたことが分かった。銃弾はガーフィールドの背骨の右側に入ったが、左側に移っていた。嚢腫が銃弾の周りに形成され、実質的に無害になっていた。自然回復に委ねれば、ガーフィールドはおそらく数週間で復帰できたと考えられる。

ウィリアム・マッキンリー大統領の暗殺

マッキンリー大統領の暗殺
 暗殺の犠牲になった3人目の大統領は第25代ウィリアム・マッキンリー大統領。1901年9月6日午後4時7分、ニュー・ヨーク州バッファローのアメリカ博覧会場にて無政府主義者レオン・チョルゴシュが発砲。
 その日、マッキンリーはバッファローで開かれたパン・アメリカン博覧会を訪問中であった。公式の歓迎会で大統領に挨拶する列に並んでいたチョルゴシュは手を差し伸べようとした大統領の腹部に向けて2回発砲した。チョルゴシュの銃はハンカチに包まれた手の下に隠されていた。それにもかかわらず警護の者は特に何の不審も抱かなかった。
マッキンリー大統領の暗殺現場 暗殺者レオン・チョルゴシュ
 (上) 暗殺現場
 (右) 暗殺者レオン・チョルゴシュ
 1発の銃弾は胃を貫通していた。ガーフィールドは近くの病院に運び込まれたが、医師は残る銃弾を発見できず、腹腔内を洗浄して縫合するだけにとどめた。大統領は8日間生存したが、9月14日に壊疽によって亡くなった。検死によっても銃弾は発見されなかった。
 ガーフィールドが亡くなった時、副大統領のセオドア・ルーズベルトがアディロンダック山脈に出掛けていたためにすぐに大統領職を引き継ぐことができず、13時間、大統領職が空席になった。ルーズベルトが副大統領から昇格した結果、史上最年少で大統領職に就くことになった。この記録はいまだに破られていない。

ジョン・ケネディ大統領の暗殺

 そして、4人目の暗殺された大統領が第35代ジョン・ケネディ大統領。1963年午後12時30分、テキサス州ダラスで事件は起きた。犯人はリー・オズワルドとされているが未だに多くの部分が謎に包まれている。
 その日、ケネディはダラス市内で行われたパレードの最中に大勢の群集の前で狙撃された。ケネディは翌年に迫った大統領選挙でテキサスの支持を集めるためにダラスに行った。目撃者によって銃声の数に関する証言は異なっている。少なくとも2発、もしくは3発か4発がケネディと同乗者のテキサス州知事のジョン・コナリーに命中した。銃弾はケネディの首の後ろに命中し、気管を破った。さらにもう1発の銃弾が大統領の頭部を貫通し、頭蓋骨の一部を吹き飛ばした。ケネディは近くの病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。
 ダラスの政治的状況はアメリカの中でも最も加熱していた。公民権運動が高まりつつある中、過激な保守派はケネディのリベラルな政策に強く反対していた。また多くの者はケネディの共産主義の脅威に対する姿勢にも反対していた。テキサス州知事やウィリアム・フルブライト上院議員は大統領にダラス訪問を考え直すように求めたが、ケネディはそれを拒んだ。
ダラスの暗殺現場
 犯人としてリー・オズワルドがすぐに逮捕された。テキサスの監獄から移送中にオズワルドはジャック・ルビーに銃殺された。その結果、暗殺の真相は闇の中に隠された。1964年、ルビーは殺人罪で有罪判決を受けた。オズワルドは犯行を自供しなかったために、オズワルドの死は多くの者にケネディの暗殺に何らかの組織的関与があるのではないかという疑念を抱かせた。
 1963年11月29日、ケネディの後を引き継いだリンドン・ジョンソン大統領はアール・ウォレン最高裁長官を長とするケネディの暗殺を調査する委員会を立ち上げた。委員会の正式名称はケネディ大統領の暗殺に関する大統領委員会であるが、ウォレンの名前を冠してウォレン委員会と呼ばれた。数ヶ月の調査の後、ウォレン委員会は、暗殺はオズワルドによる単独犯行だと結論付けた。しかし、銃声の数やその方向、その他の詳細について、コナリーと主要な目撃者の間に多くの食い違いが見られた。多くの者はウォレン委員会の結論を信じなかった。
 1977年、下院は調査を再開した。そして、1979年、暗殺者に関する下院特別調査委員会は、ケネディの暗殺はおそらく共同謀議によるものであるが、その他の暗殺者を特定することも、共同謀議の範囲を特定することもできないと結論付けた。1994年、議会は連邦暗殺再考委員会を設立して、ケネディの暗殺に関する記録を集めて公開したが、未だに暗殺に関する決定的な説はない。
 今後、さらなる詳細を随時更新。