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アメリカ歴代大統領研究ポータル

「大統領万歳」

アメリカ大統領就任式完全マニュアル

 2017年1月20日に行われるドナルド・トランプの就任式だが、今回で何回目の就任式になるのか。公式には「第58回大統領就任式」となる。1789年以来、200年以上も続けられてきた就任式にはどのような歴史があるのか。 ざっと写真だけ見たい人はロイター通信のページがお勧め。

就任式の意義

 1989年の就任演説でジョージ・H・W・ブッシュは次のように語っている。就任式の意義を最も端的に表した言葉である。

「民主主義の大いなる日を見られることに感謝しようと子供達に私は言いたい。民主主義は我々すべてのものであり、自由は風に舞う美しい凧のように高く高く上って行く」

 このように言われるように、アメリカ大統領の就任式は大きな意義を持っている。私の考えでは、民主主義、統合、再生という三つの大きな意義がある。

Democracy(民主主義)

 まず就任式は民主主義を象徴する儀式である。すなわち、選挙という民主的な過程を経て権力が前任者から後任者へ引き継がれる。権力が国民の意思に基づいて移譲されること、それが民主主義の原則である。就任式はそれを象徴的に再確認する儀式である。

Integration(統合)

 次に就任式は国民統合の儀式である。言うまでもなくアメリカは多種多様な国民から構成されている。地域差も非常に大きい。
 何か共通の基盤を持っていなければアメリカ人がアメリカ人として一つにまとまっていることはできない。それに前年に行われた大統領選挙で国民は二つの党派に分かれて争っている。Fence Mending(垣根の修復)をしなければ、アメリカはばらばらに分断されてしまうだろう。
 エイブラハム・リンカーンは次のように言っている。

「選挙が終われば、自由な人民は次の選挙まで一つの国民だと言うのがふさわしい」

 2000年の大統領選挙は、フロリダ州の選挙結果をめぐって最後の最後までもつれた。2001年の就任式でジョージ・W・ブッシュはそうしたわだかまりを解消しようと次のように述べている。

「共和党員も民主党員も一緒になってアメリカのために正しいことをしよう」

 またジョン・ケネディも1960年の就任演説で次のように語っている。

「我々は今日を党派の勝利ではなく、自由を祝福する日だと見なそうではないか」

 就任式が持つ統合の性質を最も的確に表現した者は、文豪ワシントン・アーヴィングである。1853年の就任式は貴賓の一人としてフィルモア大統領夫人の横に立って前大統領が新大統領と親しく話すのを見た。

「ある政党から別の政党に権力と統治が静かに礼儀正しく移譲される様子を見ることは非常に嬉しいことだ。私は、対立する政党に属する人々が社交的に交わっている祝祭に参加した」

 すなわち、就任式はアメリカ人を一つにまとめる装置である。就任式でアメリカ大統領は、アメリカという国家の根底をなす価値観や理念を掘り起こし、アメリカ人を再統合する。そして、全米の人々はテレビでその様子を見守って共通の経験を持つ。

Reincarnaiton(再生)

 最後に就任式は新しい命の息吹を政府に吹き込む儀式である。新しいアメリカ大統領が就任することで、人々は連邦政府への期待を新たにする。そのようにして連邦政府の永続性が保障される。
 もちろん自分が支持する政党の大統領が就任するとは限らない。そうした人々も次の就任式で支持政党の大統領が就任した時に同じような期待を抱くことができる。

昔は就任式は1月20日ではなかった

 現代では1月20日に行われる大統領の就任式だが、実は昔は違う日程で行われていた。連邦議会の前身組織である連合会議は新政府の開始を3月の最初の水曜日に定めた。つまり、1789年3月4日である。
 本来であれば、初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントンは3月4日に就任することになっていたが、宣誓は4月30日まで行われなかった。それは単に連邦議会が定足数を満たすことができず大統領の選出を正式に確定できなかったからだ。当時の人々の感覚では、期日通りに議会が定足数を満たして開会されるほうが稀なくらいであった。
 現代のように1月20日に就任式が行われるようになったのは憲法修正第20条が可決された後のことである。上院が1月15日に就任式を行うべきだと主張した一方で、下院は1月24日に行うべきだと主張した。最終的に妥協案として1月20日が就任式の日程として決定した。
 就任日が変更されたのは新大統領が選出から実際に就任する期間を短縮して、現職大統領の死に体の期間をできるだけなくすためである。そうすれば新大統領は政権を早く開始でき、国民の多くが期待する新しい政策をすぐに実行できる。
 新しい日程で最初に就任した大統領は、フランクリン・ルーズベルトである。1937年1月20日のことであった。したがって、ルーズベルトの一期目は本来であれば4年のはずであったのが、就任日が変更されたために43日間も短くなった。

就任式当日のスケジュール

 新旧アメリカ大統領は就任式当日にどのようなスケジュールをこなすのか。ここでは慣例を踏まえながら就任式の式次第を追ってみたい。就任式議会合同委員会の日程表を参考にスケジュールの詳細を解説する。

朝の礼拝

 1月20日朝、前大統領には正午の任期終了まで数時間が残されている。前大統領はどのように過ごすのか。まず朝食である。リンドン・ジョンソンは紅茶に燻製の薄切り牛肉をパンに載せて食べた。そして、新大統領への助言を書いて執務室に置く。
 他にもやることはある。ホワイト・ハウスのスタッフを一堂に集めて、これまでの奉仕に感謝する。
 
 その一方で新大統領は前大統領よりも忙しい。世界中から寄せられた祝意に応答しなければならない。そして、国家安全保障に関する問題について前政権の担当官から説明を受ける。
 1989年、ジョージ・H・W・ブッシュは就任式当日について「午前6時、3つのニュースを見る。コーヒーを飲む。孫達と遊ぶ。礼拝。ホワイト・ハウスに行く。宣誓」と書いている。
 午前9時頃、新大統領は妻とともにホワイト・ハウスの傍にあるセント・ジョンズ・エピスコパル・チャーチに礼拝に向かう。「エピスコパル」は聖公会という宗派である。もちろん別の宗派の教会が選ばれる場合もある。
 就任式の朝に教会で礼拝する伝統を作ったのはフランクリン・ルーズベルトである。1933年以降、ほとんどの大統領がそうした慣行に従っている。
 1789年、ジョージ・ワシントンもニュー・ヨーク(当時の首都)にあるセント・ポールズ教会で礼拝しているが、それは現代とは違って就任式の公式行事として催された。現代では新大統領の礼拝はあくまで私的なものである。
 午前10時過ぎ、礼拝を終えた新大統領はホワイト・ハウスに向かう。ホワイト・ハウスで前大統領と会談するためである。1877年のユリシーズ・グラントとラザフォード・ヘイズ以来の伝統である。

 午前10時30分頃、前大統領夫妻はホワイト・ハウスの北柱廊に新大統領夫妻を迎えに出る。北柱廊で挨拶を終えた後、新旧両大統領夫妻はそれから暫く歓談する。ホワイト・ハウス内を歩き、適当な場所で座って飲み物やお菓子を楽しむ。


 午前11時、ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂に向かう。西にあるホワイト・ハウスから東にある連邦議会議事堂まで道なりに行けば約3キロメートルの距離である。詳細なルートは以下の地図で確認してほしい。

ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂へ

連邦議会議事堂へ

新旧大統領が自動車に同乗

 私自身も何度か体験しているが、冬のワシントンD.C.は寒い。1965年1月20日、リンドン・ジョンソンは連邦議会議事堂に向かう前に喉を医師に診てもらい、さらに「保温性下着」を着込んでいる。
 1月20日正午の平均気温は2.8℃、天候は少し曇りであることが多く、観測可能な雨が降る確率は3分の1、観測可能な雪が降る確率は10分の1である。
 アメリカ国立気象局によれば、1985年の就任式が最も寒く−13.9℃まで下がった。体感気温は実に−30℃である。そのため急遽、就任式は連邦議会議事堂の円形大広間で行われた。逆に最も暖かかったのは1981年(1月20日)と1913年(3月4日)で12.8℃まで上昇した。

 
 前大統領と新大統領は連邦議会議事堂まで同じ自動車に乗って向かう。通例、前大統領が後部座席右側に、新大統領が後部座席左側に座る。乗り物が馬車から自動車に変わったのは1921年からである。大統領夫人達は別の自動車に乗る。もちろん二期目の就任式の場合は新旧大統領がいないので、大統領夫妻が同じ自動車に乗る。


 ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂へ延びるペンシルヴェニア通り沿いに多くの群衆が詰め掛ける。 新旧大統領は群衆に手を振って応える。1829年の群衆についてダニエル・ウェブスターは次のように書いている。

「このような群衆を私はこれまで見たことがなかった。ジャクソン将軍を見たいがために500マイル[800キロメートル]も離れた場所から来た者もいる」

 2009年には24万人以上の人々が沿道に並び、3万人が警護に就いた。混乱が予想されたが逮捕者は1人も 出なかった。警備の責任者は、「我々は最悪の事態が起こると予想していたが、まさにアメリカの偉大な祝祭であった」と述べている。

連邦議会議事堂

(青)西正面 (赤)演壇 (紫)上院 (緑)下院 (黒)東柱廊

連邦議会議事堂空撮写真(1933年3月4日)
就任式が始まる前の連邦議会議事堂空撮写真

演壇への入場 

 ホワイト・ハウスから連邦議会議事堂まで自動車で数分である。自動車を降りて連邦議会議事堂に入る。そして、一室で就任式の開始を待つ。リンドン・ジョンソンは熱い紅茶に蜂蜜を入れて飲んだ。就任演説に備えて喉を潤すためだろう。
 その頃、群衆は連邦議会議事堂の西正面に集まって就任式が行われる演壇に大統領が登場するのを待っている。西正面が初めて就任式の会場に使われたのは1981年である。西正面が選ばれたのはレーガンが西方にあるカリフォルニア州知事を務めていたことによる。多くの大統領がレーガンの前例に倣っている。
 連邦議員達が連邦議会議事堂から演壇に出る。それに連邦最高裁の判事達や閣僚、州知事達が続く。他にも軍高官や各国の外交官が演壇に出る。演壇には他にも大統領経験者が顔を出す。
 例えば2001年と2005年にはジョージ・H・Wブッシュが息子ジョージ・W・ブッシュの就任式に出席している。これは元大統領が同じく大統領になった息子の就任式に出席した初めての例である。
 親子で大統領になった例は、アダムズ親子もよく知られているが、1825年に行われたジョン・クインジー・アダムズの就任式に父ジョン・アダムズは病気のために出席できなかった。
 2017年の就任式では、カーター、ジョージ・H・W・ブッシュ、クリントン、ジョージ・W・ブッシュの4人の大統領経験者の出席が期待されたが、ジョージ・H・W・ブッシュは既に体調を理由に出席を見送ると発表している。そのため新旧大統領を含めて6人の大統領経験者が一堂に会するという史上初の機会が失われた。
 西正面に設けられた演壇はかなり広く、1万平方フィート(約930平方メートル=テニス・コート4面)以上ある。就任式の度に新しく作られる。後述のように、西正面に演壇が築かれるようになったのは1981年以後である。それまで就任式は主に東柱廊で行っていた。
 西正面の演壇が初めて使用されたのは、1981年の就任式である。レーガン新大統領は次のように述べている。

「今回、連邦議会議事堂の西正面で初めて就任式が行われている。ここに立って素晴らしい眺めを見渡せば、この街の美しさと歴史が広がっている。このモールの端には我々が肩を借りている偉大な人々ための祭壇[ワシントン記念塔、リンカーン記念堂、ジェファソン記念堂など]がある」

背後から見た演壇(2013年)
(右遠方)ワシントン記念塔 (右手前)報道陣用タワー
背後から見た演壇
 最近では群衆の数があまりに多いので大きなスクリーンに就任式の様子が映し出される。さらにスピーカーが各所に設置されている。初めてスピーカーが設置されたのは1921年である。
 それ以前は、幸運にも大統領のすぐ傍に席を占めた者しか就任演説や宣誓を聞くことができなかった。大部分の人々は就任演説の内容を新聞やパンフレットで知った。現代では情報伝達手段の発展によって、就任式の様子はライブ映像で全世界に伝えられる。


 午前11時30分頃、前ファースト・レディと前副大統領夫人が演壇に登場する。その後、新ファースト・レディと新副大統領夫人が続く。それから海兵隊の楽隊による「大統領万歳Hail to the Chief」(Audio)の演奏が始まる。演奏とともに前大統領と前副大統領が姿を現す。次に新副大統領が出る。
 トランペットが高らかに吹き鳴らされ、ようやく新大統領が演壇に登場する。1905年の就任式では500人の混声合唱団が新大統領を迎えた。新大統領は演壇の近くに座る。そのすぐ傍らには新副大統領と前正副大統領が座っている。


副大統領宣誓

 まず新副大統領が就任宣誓をするために進み出る。宣誓を執り行う者は、連邦最高裁判事、連邦下院議長、前副大統領などである。宣誓を執り行う者に続いて新副大統領が宣誓する。

「私は、国内外のすべての敵から合衆国憲法を擁護して保護し、合衆国憲法に真摯な信頼と忠誠を捧げ、こうした義務をいかなる留保もなく弁解もなく遂行し、私が今から行おうとしている職責を忠実かつ円滑に果たすことを厳粛に誓約する。神のご加護を」


大統領宣誓

 副大統領宣誓が終わった後、いよいよ大統領宣誓が行われる。時刻は正午頃である。連邦最高裁長官が立つ。トランペットが吹き鳴らされる。まず連邦最高裁長官が合衆国憲法よって規定されている35語からなる宣誓を述べる。

「私は、合衆国大統領の職務を忠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を保全し、保護し、擁護することを厳粛に誓う(または確約する)」

 演壇の上で連邦最高裁長官がどこに立つかは特に決まっていない。右側に立つこともあれば、左側に立つこともある。またどのように宣誓の言葉を繰り返すかも決まった方式はない。
 1913年の大統領宣誓では、最高裁長官が大統領宣誓を全文述べて、新大統領に問い掛けた。ウィルソンはそれに対して「私はそうします(I do)」とわずか二語で答えた。そうした方式は1925年と1929年にも踏襲された。


 タフトが行っていたような方式は、1933年の大統領宣誓で変更された。最高裁長官が大統領宣誓を全文述べるのは変わらないが、新大統領が続けて全文を繰り返して最後に「神に誓って(So help me God)」と付け加えた。
 1949年から1969年にかけては、まず最高裁長官が「あなた、[大統領のフルネーム]は厳粛に誓う・・・・・・」と始めて、新大統領が「あなた」を「私」に変えて宣誓の言葉を述べた。そして、そうした過程が2、3語ずつ進められた。
 しかし、2005年の就任式では、まず最高裁長官が「あなたの右手を挙げて私の後に続いて繰り返すように。私、[大統領のフルネーム]は厳粛に誓う・・・・・・・」と始めて、新大統領がそっくり同じ文言を述べた。
 無事に宣誓が終わると、「大統領万歳」が演奏され、連邦議会議事堂の北に設置された大砲から21発の礼砲が放たれる。










就任演説

 大統領宣誓が終わると就任演説が行われる。就任演説はワシントン以来の伝統である。ただ就任演説は長い間、大統領宣誓の後ではなく前に行われていた。例えばリンカーンも就任演説を大統領宣誓の前に行っている。
 就任演説で何を話すかは特に決められていないが、特別な政策などに言及する一般教書とは異なって、自由や民主主義など普遍的な価値観を示すことが多い。格調高い内容を示した就任演説ほど高く評価される。歴史的に高く評価されている就任演説は、ジェファソン、リンカーン、フランクリン・ルーズベルト、そして、ジョン・ケネディの就任演説である。

ジェファソンの就任演説

 1800年の大統領選挙で連邦党に勝利したジェファソンは、初めての政党間における政権交代を実現した。連邦党と民主共和党の対立を緩和するために就任演説で融和を訴えかけた。そうしたスタイルは以後の大統領によって踏襲されている。

「我々は、同じ原理を持つ同胞を異なる名前で呼んできた。我々は皆、共和派であり、我々は皆、連邦派である。もし我々の中に、我が連邦を解体しようと望み、あるいは共和政体を変えようと望む者がいても放置しておくことが比類なき安全策である。意見の誤りが容認される場においては、理性がそれに自由に対抗できるからである。[中略]。生まれによるのではなく、我々の行動とそれに対する我が親愛なる市民の判断によって栄誉と信頼を受けるべきであり、我々自身で勤勉さを身に付け、我々自身の能力を行使する権利が平等にあるという当然の感覚を[我々は]抱いている。[中略]。こうした恩恵の他に我々がもっと幸せで栄えた国民になるためにさらに何が必要だろうか。親愛なる国民の皆さん、もう一つある。賢明で質素な政府である。それは人々を互いに傷付け合わないように抑止し、それ以外は自律的に勤勉と進歩の追求を自由に調整させ、労慟者のロから稼いだパンを奪い取らない政府である」

 ジェファソンの就任演説は事前に新聞で印刷され号外として配布された。そのため直接演説を聞けない人もその内容を知ることができた。

リンカーンの就任演説

 1861年、南北分裂の危機にさらされていたリンカーンは「我々は敵になってはいけない。私の手ではなく、不満を抱くあなた達同胞の手に内戦が起きるか否かという重大な問題が委ねられている」と述べた。こうした訴えかけも虚しく南北戦争が間もなく勃発したことを歴史の通りである。
 その年、リンカーンは連邦議会議事堂の東柱廊で就任式を行っているが、建物がまだ改修中であった。1855年に木造の骨組みが取り払われ、鉄骨に入れ替える作業が行われていた。それはリンカーンがかつて「分かれたる家、建つこと能わず」と論じたようにアメリカという国家の運命を暗示しているかのようだった。

改修中の連邦議会議事堂(1861年)
改修中の連邦議会議事堂(1861年)
 1865年4月9日、南北戦争は南軍の総司令官ロバート・リーの降伏で終結した。リンカーンの二度目の就任式はそれよりも一ヶ月前に終わっていたが、その時、連邦議会議事堂の改修は完了していた。それはまるで南北戦争の終結によってアメリカが恒久的に分裂する危機を回避できたことを象徴的に示しているかのようであった。
 リンカーンは就任演説で「誰にも悪意を持たずに全人に愛を」と述べた。そして、さらに次のように言葉を続けた。

「神が示す正義を揺るぎなく信じ、我々が取り掛かった仕事を完了すべく努力しよう。国家が負った傷を治し、妻と子供のために戦闘に耐えた人をいたわり、我々自身と諸国の間で公正と永続する平和を達成して守るためになすべきことを行おう」

 この演説の最後の部分を聞いた観衆は感涙を流したという。残念ながらリンカーンは就任後、暫くして暗殺され、自分の言葉が実現されるか否か確かめることはできなかった。

リンカーンの就任式(1865年)
リンカーンの就任式(1865年)

フランクリン・ルーズベルトの就任演説

 新大統領はその時、アメリカが直面している課題を乗り越えられるように国民を鼓舞する。フランクリン・ルーズベルトによる1933年の就任演説が代表的な例である。大恐慌の訪れで意気阻喪していた国民にルーズベルトは次のように訴えかけた。

「この偉大なる国はこれまで持ちこたえてきたように持ちこたえ、再生して繁栄するだろう。だからこそ最初に私の信念を表明したい。我々が恐れなければならないことは、恐怖そのものである。名状し難く根拠がなく謂われのない恐怖は後退を前進に変えるのに必要な努力を麻痺させる。国民生活の暗い時代にはいつでも人民は勝利に必要な理解と支持を率直で活力に富んだ指導者に与えてきた。この重大な時代にあたってあなた達が再び支持を指導者に与えてくれると私は確信している。[中略]。今、国民は行動に次ぐ行動を求めている。我々は迅速に行動に次ぐ行動を取らなければならない。[中略]。我々の最優先課題は人々を仕事に就かせることである」

フランクリン・ルーズベルトの就任演説(1933年)

ケネディの就任演説

 1961年のケネディの就任演説は世代交代を前面に押し出している。前大統領のアイゼンハワーはこの時、70才、ケネディは43才であった。まさに世代交代と言うのにふさわしい。

「松明はアメリカ人の新しい世代に受け継がれた。新しい世代は、今世紀に生まれ、戦争によって鍛えられ、過酷な平和によって訓練され、古くからの遺産に誇りを持ち、この国がいつも行ってきたような人権の無視を看過できない。[中略]。世界の長い歴史の中で、これほど危機が迫る中で自由を守る役割を与えられた世代はほとんどない。私はこの責務に尻込みせず歓迎する。我々の誰もが他のいかなる人々や世代とも立場を交換できるとは思わない。こうした努力に我々がもたらそうとしている活力、信念、献身は、我が国と我が国に奉仕する人々を照らし出し、炎の輝きが世界を真に明るくするだろう。そして、我が同胞のアメリカ人よ、国があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国のために何ができるか問おう。我が同胞の世界市民よ、アメリカがあなたに何をしてくれるかを問うのではなく、我々が人類の自由のために一緒に何ができるか問うてほしい」

ケネディの就任演説(1961年)



前大統領の送別

 就任演説が終わった後、祝祷と国歌の演奏で式典が終了する。そして、前大統領が去る。新旧大統領は家族とともに演壇から連邦議会議事堂を中を通って東柱廊に出る。そこで新旧大統領は別れの挨拶を交わす。
 前大統領を運ぶためのヘリコプターが近くに待機している。ヘリコプターはアンドリューズ空軍基地に向かう。天候不良の場合は飛行機ではなく自動車が使われる。アンドリューズ空軍基地から飛行機に乗って前大統領はワシントンを後にする。2009年、「ニュー・ヨーク・タイムズ紙」はその様子を次のように記している

「私はこれまで多くの大統領の登場と退場を見てきたが、あの火曜日のような情景を見たことはなかった。400万人の目が天に向けられ、[前大統領の]ヘリコプターが街の外へ去って行くのを見ていた。誰もが別れを告げようと手を振っているように見えた。そうした波はモールからリンカーン記念堂へ向かって西に延びていた。そして、彼らの目はしっかりとその緑の鳥[ヘリコプター]を見据えていた」

 前大統領を見送った後、新大統領は連邦議会議事堂内に戻って就任午餐会に臨む。

就任午餐会

 昔はホワイト・ハウスで午餐会を行うのが通例であったが、1953年以来、就任式議会合同委員会が就任午餐会を主催している。1977年、カーターが就任午餐会を断った事例があるが、1781年以来、午餐会は連邦議会議事堂南翼にあるナショナル・スタテュアリー・ホールで行われている。ナショナル・スタテュアリー・ホールは、50州から2つずつ集められた彫像が飾られているホールである。ただ現在では100体はあまりにも多いので35体のみがホールに陳列されている。
 就任午餐会のメニューはどのようなものか。2013年を例に見てみよう。食物やワインは基本的にアメリカ産である。

 前菜
 ニュー・イングランド風チャウダー添え蒸しロブスター
 ワイン:Tierce 2009 Finger Lakes Dry Riesling

 メイン
 ハックルベリー添えヒッコリー・グリルの牛肉
 赤ジャガイモ・ケーキ
 ワイン:Bedell Cellars 2009 Merlot

 デザート
 サワー・アイス・クリームとメープル・カラメルソース添えハドソン湾風アップル・パイ
 チーズと蜂蜜の巣
 ワイン:Korbel Inaugural Cuvee

就任晩餐会(2013年)
 最も記憶に残る就任午餐会は1981年に行われた就任午餐会である。カーター政権の末期にイラン大使館人質事件が起きた。カーターは何とか人質を解放しようと様々な手段を試したがいずれも失敗した。その結果、政権の支持率は低迷した。
 人質が解放されたのは後任のレーガンの就任式の当日であった。レーガンが就任演説を終えた頃、イランでは解放された人質が飛行に乗り込んでイランから出た。その報せを受け取ったレーガンは、就任午餐会の場でイラン大使館人質事件が解決されたことを発表した。そして、解放された人々をヨーロッパまで出迎えに行く役目を前大統領のカーターに委ねた。

就任パレード

 就任晩餐会が終わるといよいよ就任パレードである。来た時と逆にペンシルヴェニア通りを連邦議会議事堂からホワイト・ハウスへ向かう。

就任パレードのルート

 リムジンには大統領夫妻が一緒に乗っている。そうした慣例が始まったのは1909年であった。その年、タフト夫人は連邦議会議事堂からホワイト・ハウスまで夫と同じ馬車に乗ってホワイト・ハウスに向かうと主張した。それまでは新旧大統領が一緒に乗るのが慣例であった。タフト本人よりも大統領就任を喜んだというタフト夫人らしいと言える。
 他にも軍楽隊や大学や高校のバンド、フロートなど様々なパフォーマーがパレードを盛り上げる。

就任パレード(2013年)


 ホワイト・ハウスの近くまで来ると大統領夫妻はリムジンを降りて観望台に入る。観望台には安全上の理由から防弾ガラスが施されている。そこからパレードを見る。パレードは約2時間続く。

ホワイト・ハウス前の観望台
ホワイト・ハウス前の観望台
 最も記憶に残る就任パレードは1977年のパレードである。1月20日午後1時24分、突然、カーター大統領夫妻がリムジンから降りてペンシルヴェニア通りを歩き始めた。
 それを見た群衆から「彼らが歩いている。ジミーとロザリンが歩いている」という叫びが上がった。大統領夫妻はホワイト・ハウス前の観望台まで43分かけて歩いた。
 なぜカーターは就任パレードで歩いたのか。カーター自身が次のように回想している。

「重装備の車を出ることで象徴されることは、単に健康を促進することではないと私は認識し始めた。私は、近年、ベトナム戦争やウォーター・ゲート事件の発覚に怒った抗議者達が大統領や副大統領に常々、対立してきたことを覚えていた。安全上の心配はあったが、私はできる限り人民を信じていることを鮮明に示したかった。私は、ただ歩くだけで大統領とその家族の帝王的な要素をはっきりと除外できるのではないかと思った」

 国民は、ホワイト・ハウスの内輪だけで何でも決定してしまうようなニクソン政権を「帝王的大統領制」だと見なして批判的に見てきた。そうしたワシントン政界や大統領に対する不信を払拭しようとカーターは努めたのである。
 カーター以後の大統領もカーターの先例に倣ってリムジンから降りて歩くことがある。ただ全行程をすべて歩いたのはカーターだけである。

就任パレードで歩くカーター大統領夫妻
就任パレードで歩くカーター大統領夫妻

就任舞踏会

 就任舞踏会は20世紀後半に入るまで一つ、多くてもせいぜい三つの会場で行われるだけであった。それは大規模な舞踏会を開催できる会場がほとんどなかったからである。近年は会場として使える施設が増えたせいで会場の数が大幅に増えている。1997年には14の会場で就任舞踏会が開催された。7,500人の参加者が一人150ドルの入場料を支払った。これは入場料のみであり、会場で今日せられる飲食物は一部を除いて別料金である。
 会場は非常に混雑し、十分な数の椅子もない。帽子やコートを紛失してしまうこともしばしばある。リンカーンも1849年に行われた就任舞踏会に出席しているが帽子を紛失している。クローク係の対応が悪く、コートの管理が行き届かずに乱闘騒ぎになったこともある。レーガン夫人は就任舞踏会について次のように書いている。

「『就任舞踏会』という言葉を聞いた時、大きなダンス・フロアを備えた舞踏室で多くの人々がダンスを楽しんでいると誰もが思うでしょう。私もそう思っていた。しかし、現実は違っていた。多くの人々がぎゅうぎゅうに押し込められ、立っているのがやっというありさまです。踊ることなんてとてもできず、非常に騒がしいのでオーケストラも聞こえません」

 大統領夫妻は就任舞踏会に顔を見せて来場者に感謝する。クリントンのようにサクソフォンを披露したり、ニクソンのようにピアノを弾く大統領もいる。ただ大統領夫妻の滞在時間は非常に短い。他にも回らなければならない会場がたくさんあるからである。
 例えば2001年の就任舞踏会でブッシュ夫妻は9つの会場を回ったが、踊った時間は平均して48秒である。最長で67秒、最短で29秒である。なぜそんなに時間が短いのかと聞かれたブッシュは「カーペットの上でダンスするのは大変だからね。それが一つ目の理由。二つの目の理由として私はあまりダンスがうまくないからさ」と答えた。
 2005年の就任舞踏会では会場が10に増えたものの、平均の踊った時間は53秒に増えた。そして、大統領夫妻は午後10時3分にホワイトハウスに帰着した。予定よりも1時間半も早かった。

就任舞踏会(2009年)