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アメリカ歴代大統領研究ポータル

アメリカ大統領の給料
大統領職の継承順位

継承順位一覧

関連記事  大統領が急死した場合の継承
 アメリカ大統領が何らかの原因で職務を続行できなくなった場合の継承順位は以下の通りである。アメリカ史上、例外(大統領職代行)を除いて副大統領以外に大統領職が継承された事例はない。
 継承順位の一覧に掲載された候補者が一網打尽にならないような工夫もされている。例えば一般教書をアメリカ大統領が議会で読み上げる時には閣僚の誰かがどこか別の秘密の場所で待機するようになっている。継承順位を絶やさないようにする工夫である。

 副大統領
 連邦下院議長
 連邦上院議長代行(通常は副大統領が上院議長を兼職)
 国務長官
 財務長官
 国防長官
 司法長官
 内務長官
 農務長官
 商務長官
 労働長官
 保健福祉長官
 住宅都市開発長官
 運輸長官
 エネルギー長官
 教育長官
 退役軍人長官
 国土安全保障長官

 閣僚の順位は憲法で定められておらず、連邦法で定められている。国務長官以下、閣僚の継承順位は1947年陸海空が統合されて新設された防衛長官を除いて創設年度の古い順に並んでいる。


参考:大統領の不能力はどのように判断されるのか

合衆国憲法の不明確な規定
 1967年に憲法修正第25条が成立するまで、もともとの憲法の規定では、大統領が免職、死亡、辞職した場合に副大統領は大統領になるのか、それとも単に大統領代理となるのか不明確であった。
 1841年にウィリアム・ハリソン大統領が死亡した時、ジョン・タイラーは副大統領が大統領職を継承する権利を明言し、その後の継承の前例を作った。憲法修正第25条第2節によれば、副大統領職が空席になった場合、大統領が副大統領候補を指名し、議会の承認を受けることになっている。憲法修正第25条第3節と第4節によって、大統領の不能力を扱う具体的な手続きが明示された。こうした条項によって、大統領単独か、もしくは副大統領及び閣僚の過半数が大統領の不能力を宣告した場合、大統領の権限は一時的に副大統領に移る。大統領の不能力をめぐって大統領と副大統領及び閣僚の間で論争が起きた場合、解決は議会に委ねられている。
 憲法第2条第1節6項は、大統領が免職、死亡、辞職、または不能力に陥った場合は、その権限は副大統領に移ると規定している。しかし、「同上」という言葉が、大統領の「権限と義務」が副大統領に移ることを意味するのか、単に「上述の職」、つまり、大統領の職が移るのか明確ではない。また憲法は、不能力とはどのような状態であるのか、必要に応じてどのように副大統領が大統領の職務を開始すればよいのか、そして、副大統領は実際に大統領になるのか、それとも一時的に大統領の権限を代行するだけなのか明記していなかった。
 憲法の曖昧な規定によって生み出されたこうした問題は、ジェームズ・ガーフィールド大統領ウッドロウ・ウィルソン大統領が長い間、不能力に陥った時に明らかになった。ガーフィールドが銃撃されたのは1881年7月2日だが死亡したのは9月19日である。閣僚は、チェスター・アーサー副大統領が臨時に大統領に就任できるかを協議した。そして、もしガーフィールドが回復した場合、職務を再開する妨げとなるのでアーサーは臨時大統領になるべきではないと結論付けられた。結局、ガーフィールドがそのまま死亡したのでアーサーは副大統領から昇格して大統領になった。
 ウィルソンの閣僚と多くの議員は、1919年と1920年にウィルソンが長期にわたって病床についた際に、トマス・マーシャル副大統領に一時的に大統領の権限を移そうとしたが、憲法に明確な規定がなく、ホワイト・ハウスの職員の抵抗もあったために実現しなかった。
 ガーフィールドとウィルソンの不能力は以上に長期にわたったが、他にもジョージ・ワシントン大統領ジェームズ・マディソン大統領、チェスター・アーサー大統領、グローバー・クリーブランド大統領ドワイト・アイゼンハワー大統領ロナルド・レーガン大統領などがその任期中に一時的に不能力に陥っている。

副大統領の空席問題
 副大統領が死亡、辞職、免職の場合か、もしくは大統領職を継承した場合、副大統領職は空席になる。副大統領職が空席になった事例は18回もある。
 1812年、マディソン政権下のジョージ・クリントン副大統領が在職中に死亡し、1813年まで副大統領職は空席となった。マディソン政権2期目のエルブリッジ・ゲリー副大統領も1814年に在職中に死亡し、1817年まで副大統領職は空席となった。
 ジャクソン政権下のジョン・カルフーン副大統領は連邦上院議員に選出されたことで辞職し、ジャクソンの1期目の残りの任期が終わるまで副大統領職は空席となった。
 1841年、ウィリアム・ハリソン大統領の死去に伴ってジョン・タイラー副大統領は大統領に昇格し、1845年まで副大統領職は空席となった。3年11ヶ月に及ぶこの空席は史上最も長く副大統領職が空席となった期間である。
 1850年、ザカリー・テイラー大統領の死去に伴ってミラード・フィルモア副大統領が大統領に昇格し、1853年まで副大統領職は空席となった。
 1852年の大統領選挙で副大統領候補として当選したウィリアム・キングは結核のためキューバで療養中であり、同地で宣誓を執り行った。しかし、1853年4月18日にキングは死亡し、ほとんど何も副大統領としての責務を果たさなかった。キングの任期は最も短い副大統領の任期である。
 1865年4月、エイブラハム・リンカーン大統領の暗殺に伴ってアンドリュー・ジョンソン副大統領は大統領に昇格し、1869年まで副大統領職は空席となった。
 グラント政権下のヘンリー・ウィルソン副大統領は1875年に在職中に死去し、1877年まで副大統領職は空席になった。
 1881年、ジェームズ・ガーフィールド大統領の暗殺に伴って副大統領のチェスター・アーサーが大統領に昇格したために、1885年まで副大統領職は空席となった。
 クリーブランド政権1期目のトマス・ヘンドリックス副大統領は1885年に在職中に死亡し、1889年まで副大統領職は空席となった。
 マッキンリー政権1期目のギャレット・ホバート副大統領は1899年に在職中に死亡し、1901年まで副大統領職は空席となった。1901年9月にウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺された後、セオドア・ルーズベルト副大統領は大統領に昇格し、1905年まで副大統領職は空席となった。
 タフト政権下のジェームズ・シャーマン副大統領は1912年に在職中に死去し、1913年まで副大統領職は空席となった。
 1923年にカルヴィン・クーリッジ副大統領はウォレン・ハーディング大統領の死亡に伴って大統領に昇格し、1925年まで副大統領職は空席となった。
 1945年、ハリー・トルーマン副大統領はフランクリン・ルーズベルト大統領の死去に伴って大統領職を継承し、1949年まで副大統領職は空席となった。
 1963年、ジョン・ケネディ大統領の暗殺に伴ってリンドン・ジョンソン副大統領は大統領に昇格し、1965年まで副大統領職は空席となった。
 ニクソン政権下でスピロー・アグニュー副大統領は1973年10月に辞職し、約2ヶ月後にジェラルド・フォードが副大統領に就任するまで副大統領職は空席となった。1974年8月、リチャード・ニクソン大統領の辞任によってフォードが大統領に昇格したために、新たにネルソン・ロックフェラーが副大統領に就任するまで約4ヶ月間、副大統領職が空席となった。

大統領継承法の制定
 憲法修正第25条が成立するまで、大統領職と副大統領職が同時に空席になる事態に備えて大統領継承法が定められていた。1792年大統領継承法は上院仮議長と下院議長を副大統領に次ぐ継承順位に置いているが、上院仮議長も下院議長もその当時は空席であった。下院は招集されておらず、上院も党派間の争いによって上院仮議長が決まっていなかった。ガーフィールドの暗殺を契機に、こうした事態を改善するために1886年大統領継承法が制定された。1886年から1947年までは、国務長官とその他の閣僚が継承順位に置かれた。
 そして、1947年大統領継承法によって、副大統領の次に下院議長が大統領職を引き継ぐように規定された。その次は上院仮議長である。そして、国務長官、財務長官、国防長官、司法長官、内務長官、農務長官、商務長官、労働長官、保健福祉長官、住宅都市開発長官、運輸長官、エネルギー長官、教育長官、退役軍人長官と閣僚が続く。ジョージ・W・ブッシュ政権で国土安全保障省が設立され、国土安全保障長官が継承順位の末席に加わった。しかし、これまで大統領職と副大統領職が同時に空席になるといった事態は一度も起きていない。

憲法修正12条の制定に至る経緯
 大統領の不能力と副大統領職の空席に関する国民と議会の関心は低く、大統領が不能力に陥った時に関心が高まったと思えば、危機が過ぎた後、またすぐに低くなった。しかし、1945年から1963年の間、大統領をめぐる一連の出来事が、憲法上のこうした問題について関心を集める契機となった。1945年以降の核兵器及び大陸間弾道ミサイルの発明と拡散によって、有能な大統領がいつでも権限を行使できるように求める声が強くなった。
 アイゼンハワーは、1955年には心臓発作で、1956年には回腸炎とその手術で、1957年には卒中で不能力に陥った。さらに1963年のケネディの暗殺により、心臓疾患を持つリンドン・ジョンソンが昇格して大統領になり、副大統領が不在になったため、法的に指定される第一の継承者は、慢性的な疾患を持つジョン・マコーマック下院議長となった。
 憲法修正第25条制定の一つの契機となったのが、アイゼンハワーがニクソン副大統領に宛てた手紙の公表である。その手紙の中でアイゼンハワーは、もし自分が再び不能力に陥った場合、不能力が去り、大統領が権限の返還を要求するまで副大統領が大統領代理を務めるように指示した。さらに、もしアイゼンハワーが不能力に陥り、何らかの理由で意思を副大統領に伝えられない場合、アイゼンハワーが大統領の権限を復活させると決定する時まで副大統領自身の判断で権限を肩代わりするように指示した。
 アイゼンハワーが示した方針は、ケネディとリンドン・ジョンソン、ジョンソンとマコーマック、1964年の大統領選挙後はリンドン・ジョンソンとハンフリーに受け入れられた。しかし、アイゼンハワーの方針は大統領の不能力の問題を完全に解決したわけではない。アイゼンハワーの手紙は法的強制力を欠く。また不能力でありながらそれを認めようとしない大統領を解任できるか否かについては定められていない。さらに結果的に生じる副大統領職の空席をどうするかについて言及されていない。
 1963年12月、ケネディ大塗料が暗殺されて間もない頃、憲法修正に関する司法委員会小委員会の長を務めるバーチ・バイ上院議員は、大統領の不能力と副大統領職の空席を解決する憲法修正を図るために公聴会を開くことを宣言した。アメリカ法曹協会の特別委員会と協力してバイは小委員会の公聴会の叩き台となる修正を起草した。バイが起草した条項は若干の手が加えられて憲法修正第25条として成立した。
 1964年9月29日、上院は修正を全会一致で可決した。しかし、下院はなかなか動こうとしなかった。副大統領職の空席を埋める修正が下院にとって不利なものであったからだ。従来の制度では副大統領がいない場合、大統領職を継承するのは下院議長である。しかし、提案された修正に基づいて、空席になった副大統領職を新たに任命できるようになれば、下院議長が大統領職を継承する可能性は限りなく低くなる。つまり、下院の権威が傷付けられると考えられた。
 しかし、1964年の大統領選挙でハンフリーが副大統領に選出された後、上院は再び全会一致で修正を可決した。それを受けて下院も1965年4月13日、368票対29票で修正を可決した。


 ただその他にも憲法修正第25条には問題点があった。それは大統領の不能力に関する規定である。議会の草案は、三つの異なった状況を想定している。
 一つ目の状況は、まず大統領がその職の権限と義務を遂行できなくなることを認識する場合である。その場合、大統領から上院仮議長と下院議長に手紙が送られ、副大統領が大統領代行となる。不能力が去ったことを伝える手紙によって大統領はその権限を回復する。
 二つ目の状況は、大統領が不能力に陥ると同時にその職の権限と義務を遂行できなくなることを認識できない場合である。副大統領と閣僚が状況を議論する会議を開く。もし副大統領と閣僚の過半数が大統領の不能力を宣告する場合は、大統領が議会に手紙で不能力が去ったことを伝えるまで副大統領が大統領代行となる。
 不能力に関する三つ目の状況が最も困難な状況である。精神的な不調や突然の身体的な不調の場合、大統領が不能力に陥っているか否か議論になる可能性がある。大統領が不能力ではないと否定しても副大統領と閣僚は違ったように判断するかもしれない。
 憲法修正第25条は、もしこうした事態が起きた場合、議会の判断に従って副大統領が大統領代行となることを想定している。議会は大統領が不能力か否か判断するのに最大三週間の猶予が与えられ、大統領自身の判断を覆すのに両院の三分の二の票を必要とする。三分の二の票を必要とするように規定されているのは、大統領に疑わしきは罰せずの利益を与えるためである。憲法修正第25条は、大統領が不能力である限り、その権限は副大統領に移ると規定しているだけなので、大統領が、不能力が解消されたと主張する場合、すべての過程がもう一度繰り返されることになる。
 バイを批判する者は、不能力の決定に関して行政府に過度の権限を与え過ぎていると指摘する。立法府、司法府、行政府の代表から構成される委員会に不能力を決定させる案も提案された。バイは、政権外の者に大統領から権限を剥ぎ取る可能性を認めることは憲法上の三権分立の原理を侵害する恐れがあると主張して自らの提案を擁護した。最終的に、立法府にある程度の権限を与え、大統領が不能力の宣告を避けようと閣僚を罷免する可能性を排除するために、憲法修正第25条は、閣僚に代わって議会が選ぶ他の機関の長の過半数が大統領の不能力を宣告できるように規定している。
 興味深いことに、憲法修正第25条は不能力の決定に関して詳細な手続きを規定しているのにかかわらず、不能力が何であるのか明確に定義していない。議会の討論によれば、不能力が無能、怠惰、不人気、もしくは弾劾され得る行為を意味していないのは明らかである。議会は、不能力が何かを明記することは、医学の見解の変化によって時代遅れとなる可能性があると考えている。
 議会は、副大統領職が空席となった時に直ちに新しい副大統領を任命する必要性を認めた。それによって、大統領職が与党に引き継がれる可能性に加えて、副大統領が大統領の不能力に関する規定を常に実行できる可能性が高まった。空席が生じた際に大統領が新しい副大統領を指名し、両院の過半数による承認を受けるというバイの提案は、憲法修正第25条第2節として結実した。
 憲法修正第25条の批准に対して強い反対はなかった。1967年2月10日、憲法修正第25条は成立した。最終的に三つを除くすべての州が批准した。
 憲法修正第25条第2節が実際に適用される機会はすぐに訪れた。1973年10月10日、連邦裁判所で収賄に関する容疑で告発されていたスピロー・アグニュー副大統領は司法取引の一環として副大統領を辞職した。10月12日、ニクソン大統領は憲法修正第25条第2節に基づいて、すぐに後任を指名した。後任となったのがフォードであり、憲法修正第25条第2節の適用を受けた初めての副大統領になった。約2ヶ月に及ぶ調査の後、11月27日、上院は92票対3票でフォードの指名を承認した。続いて12月6日、下院も387票対35票でフォードの指名を承認した。
 1974年8月9日、ウォーターゲート事件で弾劾され有罪判決を受けるのを避けるために今度はニクソン大統領が辞職した。ニクソンの辞職に伴ってフォードが大統領になった。8月20日、フォードはニクソンと同じく憲法修正第25条に基づいてニュー・ヨーク州知事のロックフェラーを副大統領に指名した。議会は約4ヶ月に及ぶ調査を行い、12月10日、上院は90票対7票で、12月19日、下院は287票対128票でロックフェラーの指名を承認した。
 このように何度か適用される機会があった第2節であるが、第4節及び第5節が適用される機会はほとんどなかった。ニクソン副大統領はアイゼンハワーがワシントンを離れている時に閣議を主宰した。また1955年にアイゼンハワーが心臓疾患から回復途上にある時にニクソンはホワイト・ハウスの会議を主宰した。この時、副大統領に大統領の権限が一時的に移る規定はなかった。そうした規定が定められたのは1967年に成立した憲法修正第25条である。アイゼンハワーがコロラド州デンヴァーで入院している間、助言者がアイゼンハワーに付き添って、ニクソンが主宰する閣議に出席するためにワシントンに飛んだ。
 1981年3月30日、暗殺未遂事件によってレーガンは負傷した。手術前にレーガンの意識ははっきりしていたが、レーガンは権限を副大統領に委譲する文書に署名しなかった。回復途上にあるレーガンと協力してジョージ・H・W・ブッシュ副大統領は政府を円滑に運営した。レーガンが復帰するまで約2週間、ブッシュは閣議を主宰し、ホワイト・ハウスの職員や議員と会談した。その一方で、大統領の側近は、副大統領及び閣僚の過半数が大統領の不能力を申し立てる可能性についてホワイト・ハウスで議論するのを妨げた。1985年7月、癌の手術を行う前にレーガンは大統領の権限を副大統領に委譲する文書に署名したが、そのような短期間の場合に憲法修正第25条を適用する必要はないと述べた。
 1991年5月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は不整脈で入院した時に、もし電気ショック療法が必要な場合は副大統領に権限を委譲する考えを示した。しかし、電気ショック療法は不要であることが分かり、そのような措置はとられなかった。
 2002年、結腸内視術のために麻酔を受けた時にジョージ・W・ブッシュ大統領は憲法修正第25条第3節を適用した。1月29日午前7時9分、ブッシュは、大統領の義務と権限を遂行できないために副大統領を大統領代行とする旨を記した下院議長と上院仮議長宛の手紙に署名した。午前9時24分、ブッシュは大統領の義務と権限を再び遂行できる旨を記した手紙を下院議長と上院仮議長に送った。このような措置をとった理由をブッシュは、同時多発テロのような事件があった後、大統領は自らの職責について十分に慎重にならなければならないと述べた。